2010年4月30日金曜日

匠の技

まっちゃんと建前をした。
凸と凹がピタリと合っていく様は、超気持ちいい。
「うまいじゃん」と誉めてくれたが、
墨を引いてくれたのはまっちゃんで
私はそれを切ったり彫ったりしただけだから今回巧くできたのはまっちゃんのお陰だ。わざと角材にしてないので直角を出すときも難しい。

それにしても、今回も思わされた事は、
私は、木が好き。木は良いものです。木が必要でした。
ただ倒れてそのままでは腐っていく木であっても私の目にそれは高価で尊い。
でも、、そのままでは薪などにはなるが(それでも切り刻むが)、家を建てる事には、使えない。
皮のついたまま、捻れたまま、曲がったまま、枝の伸びたままだと無理。
私の所に来るときはそのままの原木でいいんです。
任せてくれれば、墨を出し、切り、削り、研いていく
木は整えられて色んな所に使える木材になる。

2テモテ2:20 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
2:21 ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。

金や銀が必ずしも優れているわけでもない。熱いお茶を飲むときには木の器の方が軽いとか、熱くないとか具合がよいものだ。
でも、どんな器でも汚い器は使えない、綺麗にしなければペンキ缶にもならない。
せいぜいゴミ入れとして使って聖書の時代ならベン・ヒノムの谷底現代ならゴミ最終処分場にでも捨てるしかない。
私たちは自分でがんばっても、尊いことに使われるきよさになることはない。

私たちの義はボロ雑巾のようだ、一度も汚れたことのない方、その方だけが私をきよく整えてくださる。
今回も丸太をそのまま使おうとしたり、私が適当に線を出してきざんでいたなら、巧くいかなかっただろう。
自然に生えている木は完全に真っ直ぐである事がない。真っ平らな木、真四角な木を森で見ない。
だから、まず、皮をむき、出ているところは削り、大体平らにしてから、墨壺で真っ直ぐな線を引く
それを基準として進めていかないと、しぐちがぴったり合うことはない。
私は工場から出てきた木材は便利だが魅力は感じない。
曲がっていたり、節があったり、部分的に皮が残っているその木の持つ個性や味わいが好きだ。
だから今回も出来るだけそれを残したが、他の木材とぴったりと合う所、全てが協調して、一つの建物となる美しさは、匠の技なしではなしえない。

32:4 主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。

木は削られるとき文句は言わないが、大工用語で「あばれる」と言うことはある。
その時はねかせておく、いわゆる乾燥させる。
期間は樹種によって違うケヤキは70年、針葉樹は冬に倒して葉を着けたまま乾かせると1年でも使えるらしい。でも同じ木でも1本1本違うから癖の強い木ほど長く寝かす。
さらに、大切な所、(例えば床の間)に使うモノなどはもっと長く寝かす。大体、苦労して育った木ほど良い木になる。痩せた土地、水のない岩の上、崖の先、高いところに育ったモノは成長は遅いが、木目が詰まっていて、香りも強く、しかも個性もある。
最低なモノは植林された木で、特に畑の下などは化学肥料を吸って成長は早いが中はぼこぼこで弱く、根を張らないので風で倒される事が多い。
乾燥させるとき水の中に沈めて寝かしておくとさらに良い。
水の中で乾くのか、と思うのは素人で、樹液が入れ替わり具合が良く早い。
天皇家の材として使う木は海と川の合わさるところで20年は沈めた木材だと聞いた事がある。
その時、あばれるだけあばれさせておくと、実に辛抱強い求められた事に答えてくれる品性のある木になるという。そんな偉そうな事を書いている私はどれくらいねかせられるのだろう。

2010年4月29日木曜日

う~ん

私は初めての人に会ったとき良く言うこと

「失敗した○○です」
「もし、私とおつき合いなさるなら、十分気をつけてください」
「私は実に人間関係の問題を起こす人間です」

これは一見謙遜そうにも見えるがその実
相手に責任をてんかして「だから、いったじゃない」風の
本気で変わろうとしてない不遜な声明でもある

昨日、家内が
「人に手を見せる事があるから、
ガサガサの手は良くないとハンドクリームを塗るなら
人前で話すとき、口に軟膏を塗っていただいたらどう。」



う~ん 北島康介ではないが「なんも、いえねー」

2010年4月28日水曜日

道の向こうがわ


丸太から挽いた木材をまっちゃんと加工した。
長さを測り、臍穴を掘り細工をしていく。
一本の線を出すにしても、基準となる所から地道に出来る限り正確に出していく。
日本古来からのやり方をまっちゃんから教えてもらう。
休憩時、お茶を飲んでいたらまっちゃんから聖書を読んでみたいという
私は言った。「なんでや」「一度読んでみるのも悪くないとおもってな」
「じゃあ沢山持ってるからやるわ」「ありがと」
渡すとき進言しておいた。「この本眠れない時、いいぞ」

枕にしても具合がいい高さだが、量が半端じゃなく内容も難解
もし、面白くなったりして、かえって目が覚めてしまったら、
結果的には得をしたことに必ずなる。

私の言ったことも嘘ではない。
読み続けても全巻読むには10日くらいかかるから、大体眠ることになる。
このブログを見る方は聖書を読んでいる方が多いと思う、そうであって欲しい。
ベストセラーだの知識や教養、正しさを養う事などは、どうでも良いこと。
イエスキリスト、彼がどの様な方か聖書も読まずに決めてほしくない。
聖書を見ていくと、初めからずっと「救い主が来る」とそればかり繰り返されている
あるところで「救い主が来た」と、かわり、又そればかり繰り返すことになる。
最後の所で また「もう一度くる」となる。聖書、分厚い割に実は結構単純です。

私の人生を振り返ってもその時々に救いとなった出来事がある
ちょうどその時、実にタイミング良く与えられた事を思い返す。
自分の家を作っていたとき、外せない予定がありコンクリートの最後を家内に任せて、離れた。途中でコンクリートが足らなくなった。家内は「困ったなー、あの人はいないし」と見上げると目の前にコンクリートがあった。これ幸いと家内はそれを運んで、無事コンクリート工事を終わらせてくれた。あとで「何で、そんなところに?」と聞くとたまたま、コンクリートミキサーが家の前を通りたまたまレバーを動かしたまま道にコンクリートを空けていったと思うしかない事だった。
ちなみに家の前の交通量は多くなくその時以来15年私が頼んだとき以外コンクリートのトラックは通った覚えがない。実に有り難い事。
その日ぶちまけられたコンクリートの道は長くアスファルトにシミになって続いていた。
その道の先はすくいぬしにつながっている。

2010年4月27日火曜日


高い所に住んでいると、大変な事もある
でも、それ以上の楽しみもある

桜や紅葉を長い時間楽しめる事もそうだ
これは長野市からのちょうど中間地点の桜
私の庭では梅が咲き始めてきた
連休には桜も戸隠に、のぼってくるだろう

木を切り、畑を耕す
不器用な私にはそんな日々があっているのだろう
桜のようにふさをつけ咲くことは私にはない
人が見上げてその美しさを楽しませてくれる桜を見るたびに色んな思いが浮かぶ
今日もまたすこし桜はのぼってくる。

2010年4月25日日曜日

温度差



今朝も薪ストーブは消えていた。
暖かくなったから勢いよく燃やさない事もあるのだが
温度差が少ないことも消える原因の一つ。
外が-20度なら室内は+20度その差40度は空気の流れを作り出す。
今は外は10度で室内20度でその差はは少ない。

恋愛でも結婚でも回りの反対や障害があったほうが燃える。
駆け落ちしても一緒になる程の思いで、結婚してほしいと願う。

私の生まれた町(郡だが)では教会が無いし、キリスト者を知らない、ただ手元には聖書はあった。
その言葉の力だけが私をキリスト者にしてくれた。
信仰に入る前には、ただ、吟味して読んでいた本が、信仰後は喜びを持って読めることに驚いた。
夢中で、暇さえあれば読んだ。読むことは、楽しかった。
読むことで沢山の事を教えてもらった。
教会というもの、兄弟姉妹という人との交わり、集まり、賛美、祈り
会ってみたかった。行ってみたかった。賛美というものをしてみたかった。
祈ってみた。
主は生きていて答えをくださる。

家族と長野に来て、本を書けるほどの事の中でいつしか喜びをもって聖書を読めなくなっている自分を見た。、必要や義務ある意味お手本から読むようになったからだ。
私の状況は他の方から見たら順風満帆にみえたことだろう。
知人が尋ねた「最近聖書、読んでる?近頃、祈ってる?」

読みたくないなら読まない、祈りたくないなら祈らない、お腹が空いてないのに12時だからという理由で食べたくない。食事をするのは腹が減るからで、食物はそのためにある。私は飢え死にするかも知れない。その時は私の中に元々命が無かったのだ、もし私の中に永遠の命があるなら必ず項垂れた枝を伸ばし葉を茂らせ、実をつける。そんな話を伝えた。

あれから8年、昨日待ち合わせの場所行くと誰も来てない。気になっていた創世記と手紙の所を読んだ。
1時間以上過ぎて気付いた事は私が時間を間違え早く来たことと、聖書を楽しく読んでいたこと。

私は家内と付き合っていた頃、良く手紙を書いた。2年で300通程になるだろうか。
内容量も少なくない、定形外郵便物も珍しくない、嫁いで来たとき段ボール2箱の私の手紙を持参してきた。後で見たら中には封を切ってない手紙もあってちょっとショックだった。
「書く方が大変なんだからせめて読んでくれよ」「なんで好きな人からの手紙読まないわけ」

その時の私の言葉を、昨日は思い出して笑った。
昨日の朝はデッキに神様の絵があった。今日も主は生きてらっしゃる。
温度差は時には良いが、いつもでは疲れる事もあるだろう
今日は雲一つない青空が暖かくなることを教えてくれている。
神様と私の温度差はどれくらいあるのだろうか。

2010年4月24日土曜日

ベルの息子


携帯が突然鳴った。
いつも電話とはそんなものだが
故郷の先輩夫妻が「今、塩尻」これから来るとのことで
2日雨で体を動かす目的のプールから慌てて揚がってきた。

彼は7歳上でバイク以外接点はない。
しかし、それだけでも共有出来ることは悪くない。
「夕食どうしよう」とか「ひっとしたら泊まるかも」など
いわゆる旅人をもてなすことはめんどくさい事もある。
ただ、「お前のところに寄るから」と言うその気持ちが嬉しい。

誰しも何かののスタイルを持っている。
ただ、それしか認めない事になると狭い付き合いしか出来なくなってしまう。
彼はBMWに乗っているが、「これが一番」「これ以外はバイクではない」
となると私は彼とは楽しむ所を見つけることが出来ない。

良い意味での「私は私、あなたはあなた」の中での刺激を楽しみたい。
”共に苦しんだ友より、共に喜び合える友のほうが、、」という話もある。
私にすれば、片方が出来たならもう片方も付いてくるハズだと思う。

彼とは、去年バイクで高速道路一周という無駄な楽しみを共にしたから
3ヶ月前に彼が事故で指を落としたと、聞いた時、病院に向かった。
実は今回も「外泊許可をもらっての奥様と犬の旅」だそうだ。
悲しみや苦しみを只それだけで終わらせず、
楽しみや喜びを見つけることが出来るなら人生は決して悪いものではない。
楽しみや喜びが、苦しみや悲しみを越えさせてくれる

久々に実家に帰れてリッラックスするサンダーさん(犬)を見て、
天の実家に戻ったときの私を見させてもらったようだった。

2010年4月23日金曜日

蕎麦は好きですか。


久々、うずら屋さんへ行ってきた。

戸隠では紫峯祭という文化祭をするときに小学生はフキを採ってきてその財源にする。フキなら何でも良いわけでもない事も小学生に教えてもらった。
その250kg以上のフキを買い取ってくれるのも、うずら屋さんだ。
正直、出来合いを買った方が安いとおもうのだか
問題作りの私はPTAの時ご迷惑をかけた事もあるが、
そんな事もあり彼の人間性も少し見えたようで嫌いではない。

数ある戸隠の蕎麦屋の中でも
リピーター率も断トツだと思う。
理由はいくつかある。
場所が良い、混んでいても相席させない。
お客さんが急かされたような気分にさせない対応
山葵まで戸隠で取れた物を使う材料へのこだわり等あるが
なんといっても椅子の数を増やさない事が良いのだと思う。
今日の分だけを打ち、仕込み、その分が出たら終わり
混む日は昼で無くなる事もある。
美味しい店は沢山ある。が、多くは沢山の客が来る様になると店を改装し
椅子の数も増やす。
沢山の量をまかなう為に材料も変える時もある。
自分のポリシーを崩す気持ちは周りにも伝染していく。
結果味が落ちて客も次第に減っていく。
リピーターは新しい味を求めて来るのではなく
またあの味を、同じ味を、変わらない味を求めてくる。

哀れなことにキリスト教(の)会も同じ轍を踏んでいるように見える。
人が増えると建物を建てたり、新しいイベントをやりたがる。
本当の意味で教会に来る人は、教会らしい建築物や、立派な人や、飾り付けられた新しい話などは求めていない。蕎麦を食べに来る人は店主に会うことが目的ではない。


実は私は蕎麦が好きではない。
蕎麦は貧乏な食べ物だと思う(ごめんうずら屋さん)
でも戸隠に来てからは来客が来ると時々行く
何でも、本物は好きです。
本当に良いものは宣伝する必要は無い。
喜びや良い知らせは少し時間がかかるかも知れないが、
自然と伝わっていくものだから。
注目を浴びる事や、ブームになる事、自慢する事、出しゃばる事、その人の背丈以上の事をやろうとすることなどは
長くやっていく為にはじゃまにしかならない。

彼は会えば名前を呼んで笑顔で挨拶してくれる。偉そうに書いたが確かにいくら美味くてもヤナ奴には近づきたくないから、人間性も程々に大切だな。私も出しゃばらず本物を出せたら良いなとホントに書いていて思ってきた。

神よ、不遜なものに、謙遜をあたえたまえ

2010年4月22日木曜日

温泉

昨日は温泉行ってきました。
原則写真撮影は禁止ですので私の撮ったのは入り口の看板だけ
料金は菓子折の箱の中に放り投げてから入ります。

湯が一般温泉の85倍という濃度はちょっとドロリ系
あたりはケロリンの桶も含めて全て鍾乳洞状態
脱衣室が無いと言うより浴室と同じ空間にかごがあるだけ
貴重品はそのかごに置いておくロッカーはありません。

シャワーもなければボイラー、ポンプもない。
もちろん洗う所もない、石鹸も泡がたたない(無い尽くし)
野天風呂はいまだ現役の防火用水。(右写真参考)
只の防火用水ですから排水はありません。ただ入ってきてただあふれ出ていきます。

昨日は4時間少々入りっぱなし、温度が羊水と同じという湯はのぼせません。
以前は7時間いました。もちろん今回も、お茶とおにぎり持参。

途中珍しくかつての娘さん方5名が2つの露天のうち良い方?を占拠されたので
いつもよりはにぎやかで隣で私たちはチーン。
聞こえてくる話は、何と「ノアの箱船」の事、年金問題なんかどうでもいいの世界が大変とか、今宇宙行っているのはその為だとか、誰を乗せて誰を乗せないって誰決めるの?とか、あと50年で終わりとか「でもここの誰もいないからいいか」と笑いながら話を聞いていたらいつの間にか私は湯船で寝ていたようだ。

温泉も鮮度が命、出てくるときは透明でスパークリンワインの様に炭酸ガスが吹いてますが、あっというまに空気にふれ赤茶色に変わる。3ヶ月前には、自噴しているパイプが石塊化して水蒸気爆発
防火用水の脇から3階の屋根まで間欠泉状態で吹き上げたらしい。

1700年代からの歴史ある湯、当時もこんな感じだったのでしょうかと思える真田十万石膝元、松代温泉(加賀井温泉) 一陽館  こんなにレトロですが町の一角にあります。脇の桜が満開でした。
何にしてもどっぷり浸かるって気持ちがいいです。

2010年4月21日水曜日

命の実


咲き誇る桜を見て「日本人と一緒だな、何も実をつけない」と吐き捨てるように
言った。
確かにソメイヨシノは実を付けないし、他の日本の桜もビターなものが多く自慢
できたものではない。(私は結構好きで小学校時登って良く食べていたが、、)

しかし、下手に実を付けるより付けない事が良いこともあるかもしれない。
銀杏が実をつけるころ、綺麗とは言えない争奪戦が始まる。
もし、日本の全ての桜が山形のサクランボ並みに実をつけたらどうなるだろうか。
人、鳥、毛虫、落ちた実の処理、木の負担など色々大変な事もあるだろう。

ホセアには実を沢山つけるにしたがって堕落していく様が書かれている。
あぁ言った彼の国アメリカはどんな実をつけたというのか。

いずれにせよ、最後には命の実か、死の実 どちらかの実を結ぶしかないと聖書に書かれてある。また命はイエスにしかないのだとも。

ウルトラマンの最終回が好きだ、最後にボロボロになった瀕死のウルトラマンにゾフィが命を持ってきてこれを受け取って生きるように促すが、「その命はハヤタ隊員にやってくれ」という。正義の味方は素晴らしいのだ。月光仮面やパーマンなどなぜ良いことをしているのに隠れていて正体を証さないようにしているか、子供の時不思議だった。
今は良く分かる、イエスは正義の味方ではなく正義そのものだ。

2010年4月20日火曜日

水芭蕉


昨日は水芭蕉を見てきました。
あまりに身近にあるのでちゃんと見に行くってなかなかありませんでした。
まだ少し早いかなという状態でしたが、
水芭蕉の生長したものはお化けのように葉を茂らせるのでまだ可憐なこの時期が好きです。

霊仙寺のわき水は鉄分が多く土も赤く染めていますが、そんな泥から吹き出してくる命は曇り一つない真っ白な花を湿地に咲かせます。
さすが、神様のわざは素晴らしいです。
また此処の土は焼き物にすると実に趣のある器になります。
すべての事は主を通して見させていただくと実に味わい深いといつもながら感心します。

さて、今朝も様々な器の上に朝食が整えられます。
どんなに美しく高価な尊い物であっても、やはり何を置くかが大切です。
目で味わうという上品な事、私は得意ではありませんから。

2010年4月19日月曜日

石ころ

デッキに屋根をかける為に、原木を加工している。
ワラの家からレンガの家まで、家は知恵の固まりと言っていい。

先人たちが、考え試し繋いできたやり方、考え方、技術
自分で家を建てるときログハウスも考えた。
経験の無い方の中には丸太をそのまま使うのだから安く出来るだろうと思う方もいる。
アメリカでログハウスは最も高級で単価の高い家の一つだ。
材料代がかかるのは誰でもわかるだろう。
柱を横に摘んでいく無駄さと言えば良いだろうか。
しかし、材料代は思ったほどではない。
皮をむき、削り、加工し、運び、研く作業に工賃がかさんでいく。
もちろん自分で全てやるならその間の時間だけなのだが、大きくて重いログはクレーンや広く平らな場所もいる 。
それで前は自分の力で出来る2x6の家を建てた。
これだと、一人で持てないモノは無いので、基礎から屋根まで家族でやった。
今回もそのやり方でやれば楽で早く安いのだが、やったことの無い方法でやってみたかったし、出来た後見上げて「見て!それ、すごくいいでしょ」と 自分に言ってみたい気持ちもあった。

今回は丸太を4面をリップして組んでみるつもりだ。
実はトータルではこのやり方が一番時間もかかる。
ログハウスに長い時間居た方ならご理解頂けるかも知れないが、丸太はそのままでは重圧感や閉塞感が強く、私は長くいると疲れるのだ。
ワイルドさが好きだ。それを失いたくない。去勢された「○○先生」みたいな人間になりたくない。
しかし、今の私は実は何も出来ない葉ばかり茂らせているイチジクのようだ。
荒っぽ過ぎると回りも自分も疲れてしまう。

家や家具を作ってみればわかるがそのままで使えるものなど無いといっていい。
流木や石のアート的な物は好きだがやはり使いづらくそのうち使わなくなってしまう。
この前、野尻湖に行ったとき石を投げて何回湖面の上を跳ねさせるかで遊んだ。
水際を探し手に取るものは必ず滑らかな石ころだった。
小さいときから歯医者で削られる事が嫌だった。
原木を削りながら、整えられる事にどこか小さな抵抗する自分をみている。

2010年4月18日日曜日

エデンの思い出


人の心の中にはエデンの記憶があると思う。
出来れば庭付きの家で花や実をつける木々を植えてみたいはずだ。
たとえ土地が無くともプランターや鉢で野菜や観葉植物だけでも楽しいことです。

寒い地方だが家にはコーヒーの木がある。
その根元には前食べた 時グレープフルーツの中で種から芽が出ていたのでそのまま植えておいた柑橘系の木も2本育ってきている。
そのうち日当たりの良い実家の畑に植える予定にしている。
あと見た目はいまいちだが、たい肥置き場から伸びてきたので
アボガドも部屋で育っている。
成長するのを見る楽しみは、いいものだ。

神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。

アダムは園の管理人でもあったが、罪を犯してしまい園を追われた。
「私の父は農夫です」と語るイエスには、こんなシーンがある

イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。

農夫の父から生まれたイエスにならって、私も園の管理人になりたいと思う。
今年は天候の不順で大変ですが、それでも人が最も人らしく生きていける仕事の一つは農業だと思う。

農家に生まれ農業だけはやりたくなかった私が、畑を耕す事に喜びを感じる事は不思議な気持ちがある。
私も、いつかコーヒーの木からその実を取ってコーヒーを飲みたいです。

2010年4月17日土曜日

患難

今朝娘の挨拶は
「メリークリスマス」だった。
たいがいの事は、驚かず慌てたり騒いだりしない、電気屋ですが(今回もホエーって思っているだけだが)
さすがに今朝の雪には少しあきれた。
25cmはつもっただろう。
戸隠のフロリダと(笑っていただいて結構)呼ばれる私の所でこれなら
他はすごいだろう。
除雪機も出動したようだ。
まっちゃんも機械かたづけたらしいが、やれやれ。
まあ1969年67年にも同じ感じだったらしいからね。

聖書に終わりのしるしが書かれている。
患難、大患難と呼ばれていて、それを恐れているクリスチャンさえいるみたいだが、
正直不謹慎だと思っていても私は楽しみにしている。
明け方前が最も暗く気温も下がるのは当たり前。
パウロも患難を喜んでいると非常にマゾ的な発言をしている。
私はそこまでかは、試してないが、
審判の日は、無罪の者にとっては、待ちに待った日である。

ノアは洪水のただ中にあって箱船の中で守れた。
イスラエルは、エジプトに10の災いがあったときエジプトにいなかったわけではない。
変わらないのは、神はいつでもまもってくださるということだ。
私たちの人生にあって問題や苦しみは無くならない、ではそれから逃げないで恐れないでしっかり見て見たい。しかも必ず守って下さる方がいるのだから。
キリスト者は無敵だ。死んでも生き返る事が約束されている。
患難は私たちをより美ししく、強く、忍耐と愛ある方に造り替えて頂く大切な過程である。

4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです

それにしても車4台ともスタッドレスで良かった。守って下さったのか、私がルーズなだけか?
とにかく、ありがとう

2010年4月16日金曜日



新雪のおかげで、昨日は時期はずれのクロスカントリースキー
真っ白な世界を味合わせていただきました。
神様からのご褒美かな
ハァハァと息を切らしながら登っている私たちを
木の上から猿が見下ろしていた。
そういえばこの前、上田城址公園で猿回しがいて芸をしていた写真をとってきてくれた。
人間はすごいな、あんな、猿に芸を仕込む。
全てのものを支配させようと言った方は只者ではないな。
それなのに、自分で自分を管理することのなんとも難しさ。
やはり自分より上のお方になんとかしてもらうしかなさそうだ。

2010年4月15日木曜日

シカモア

先月泊まらせていただいた、「B&Bにしみね」からいただいた水がとても おいしいと家内が飲んでいる。
私の家の水より土の香りがあり、少し硬い感じだったが時間を置いたことで、よりなじんできたのかもしれない。
洞穴のなかに滴る1滴1滴を集めた水は先人達の血の一滴みたいだ。慶子さんありがとー

一昨日は長野は25度になった。
東京は20度沖縄も含めて長野が日本一気温が高い
実はめずらしい事でもない。海から遠い所は一気に温度があがるからね。
横から「風が涼しい~」と、聞こえた。
その言葉には、暑いという前提で言える言葉、一転して今朝は白くなったが、そんな写真はあまり見たくないので画像はこの前野尻湖行ったときの島でのショット。

英語訳ではザアカイが昇ったとされるシカモアですが、原語はよくわかりませんが、もーちょっと昇りにくい木だったのではないかと想像、だって昇りやすかったら先客で満杯だったかもしれないから。

そう考えると、昇りにくいことにもメリットがあるかもしれません。どちらにせよ、ザアカイの為にとってあったには違いない。夏はここから湖にダイブしたいと思わせる枝です。

2010年4月14日水曜日

天国入国許可許可証

春に多い黄色の花、咲いてるのは龍金花です。
クレソンや山葵と共に裏にがんばっています。
上で咲いていたマンサクやこの花を故郷では見ることがなかったので何だかうれしいです。
今朝この写真を撮っていたら。綺麗な雪が降りてきていました。
なんでも、やさしいものは大好きです。

昨日は車の車検を取ってきました。
ケチな私は、自動車税を安くするために貨物登録にしています。
年51.000円が17.800円ですが、毎年の車検になります。
でも自分でやれば保険は別で、13.100円で車検完了ですから、
またこれで1年乗れると喜んでいます。

車検は通すとも、いいますが、受かる条件は何でしょうか。
それなりの手続きや流れはありますが、最終的にはその権威を持っている方の合格と言うハンコでしかありません。
格好いいとか、高価だとか、大きいとか、新しいとか、注意して大切に使ってきたとか 、綺麗とかは全く関係ありません。
正直私の車が今日は一番古く見た目もボロでした。
でも、1発で合格!(久々です。7回落ちたこともあり、今回受からないと廃車も頭の隅にありました)
実にうれしいことです。ボロは着せても心は錦(古い)、自慢げに窓口に持っていきました。
私の後ろではいかにも金持ちのボンボン(これまた古い言い方ですが)が乗っている風の外車を車検に通すのに苦労している整備士の姿がありました。ハンコもらえるといいですね。

天国に行く条件も似ています。
大きな教会にいっているとか、自分なりに正しく生きてきたとか、注意して人に迷惑架けないなどは関係ありません。逆に金持ちや高い立場の方、賢い人は入りにくいようです。
天国に受かる条件は、その権威を持っている方の判が押してあるかどうかだけです。
私も天国の門を通りその世界を自由に走り回れることを楽しみたいです。
皆さんイエスの「血」というハンコだけが私の自慢です。
なんだかこのブログ安い教会のトラクト風ですが、これも私ですのでご勘弁を。

2010年4月13日火曜日

お気に入り

金沢には古い物が多い。
よって金沢の姉は、どころかこんなかわった物をという珍しいのをもらってくる。
物を集める事や、ひらってくることはどうやら家系らしい。
いつか実家を片づける事が跡取り?の務めだと思うと、その重圧は半端ではない。
写真は、長野市をふらりと通ったときに解体中の家があり、その時もらったものです。
正式にはケビントケースといい、ヤフオクなどでは結構高値で取引されているのを後で知った。
個人の診察室で長く使われていたそれは、薬剤がまだ入っている磨りガラス状のブルーや乳白色のビンが入っていた。
新しくしすぎると面白くないので雰囲気を残して使っている。
揺らめくガラスの戸を開けると懐かしい消毒の臭いが少しする。
保健室が好きだった私はこれもお気に入りです。
神様も沢山のお気に入りあるのかな。
あのひとも、かわったものを、ひらってくることや、あつめる性格なんだろうか。

2010年4月12日月曜日

キャッチボール

ちょっと健康的でない知人が、あるサプリメントを飲んですごかったと。
まるでドラッグをやったようだったとのこと。
成分は只のアミノ酸、数あるアミノ酸の中でも細胞と細胞が
コミニュケーションを取るために使われるアミノ酸は8種類しかない。
その8種類がすべて入っているサプリメントだ。
全ての生き物に効果があり、友人は末期の犬にも飲ませていた。
ボトルガムサイズで、ん万円、しかも犬は人の2倍の投与がいる。

細胞は回りの細胞と会話をしながら刺激しあい活性化していく、
言葉の数が限られると会話の内容も限られ、元気がなくなっていく。
多分リーブ21も同じ事もしていると思ってますが、
進められても私にはいらないと言ってきた。
私はただのケチですが、消毒のされていない土で太陽を浴びて育ったトマトには
8種含めて全てのアミノ酸が十分含まれていますから。

最近私の外側は衰えてはきてますが、
内側は活性化されております。
それは、ブログを通して「言葉」のキャッチボールを楽しみ、
刺激を受けさせているからです。
今までとは違う疲れがあったり、書くことも無い日もあると思いますが、
生きている限り「言葉」は私と共にいてくださいます。
この場をお借りしまして主と皆様に申し上げさせていただきます。
「 誠にありがとうございます。
これからもどうぞ
   よろしくお願いいたします。 」

2010年4月11日日曜日

諏訪御柱祭

祭りとはおもしろいものだ。
平安時代から続く諏訪御柱祭、春宮一に伝説のリーダー がいる
何年か前に一人振り落とされずに最後まで留まった”華乗り”である 

全てが彼の指揮の元、樅の木がひかれていく
今年の木落で一番前に誰を置くか、決めるのも彼
自分も乗りたい、気持ちがある。
彼は自分より若輩に譲り、場所を譲り自分は横で最後までサポートに徹した。自分の方が楽なのに、、次に続く者を自分の肩に乗せるように、彼を持ち上げて、誇らしげに見上げた。「じゃあ、また、7年後に」

異郷の祭りでありながら、その姿を見ていたらイエスキリストが見えた気がした。
Lukeさんも見ただけではなく、参加なされたでしょうか。楽しまれたでしょうか。
いつか話を聞かせて頂きたいと思います。

カヤック

昨日は暖かくなりました。
野尻湖面でも19度
水温は10度くらい
まわりには雪もみえる
湖面がキラキラと輝いている
ほぼ半年ぶりにカヤックを3人で楽しみました。
実に気持ち良かったです。
オールを入れるとスーッと今まであった世界が後ろに流れていく。
いままで手の届かないところにあったものが今私のところにあり
それまであったことはすぎさる
ひとかきで、15m程進む、ホンのわずかな、みずおと
それは、柔らかくて耳に心地よい

水の上にいると霊的な感じがするときがあります。
豊にいのちをたたえる御霊の水に私というオンボロなふねを浮かべて
暖かい日差しの下で水の流れと風の吹くままふねは進む
必死で漕ぐのでもなく、自分で行き先を決める訳でもない。
沈んでもそこはいのちの泉、イエスはこんなふねでも喜んで乗りこんでくれて
わたしが譲れば彼は嫌がらず舵をにぎってくれる。
鏡のような湖面をふねはゆっくりと進んでいく
私は彼の横で与太話に花を咲かせている。キリストはわたしのバカ話を聞いて笑っている。
それを見て私もおかしくなってしまう。
イエスと遊ぶのはとても楽しい。私はもっと彼と遊んでいたいと思う。

2010年4月10日土曜日

家出 まとめ


まとめ
この雲をつかむような世にあって、風に吹きまわされるような日々
完全な家庭は無く、地上には永遠の家がない。
イエスキリスト彼が何者であるか。
それは自分を知ることでもある。

イエスを信じてから22年程。
それ以前の人生にもそれなりの満足もあり、
いい家庭を持ち楽しみもあった。
私が神を必要とする状況は私の知る限り何も無かった。
健康で働く喜びもあり問題も感じてなかった。
私がイエスは何者であるかを知ろうとしたことは、
まるで、心の深いところで私を突き動かす何かがそうさせたようだった。
主を信じてから一度もイエスを信じた事を後悔したことはない。
剛一郎さんの言葉を借りるなら、「何故もっと早く信じなかったのか、それが唯一の後悔」
うーん、それもあるかもしれないが、主の時がある。
あのタイミングで、あの方法でしか、私はイエスが何者なのか知ることは無かった。
それが良かった。

2:24 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

この奥義は深い、私は主によって人生で2度目の家出をする事になる。
「私は長野に行く」その言葉を私に言わせたのは聖霊の力しかない
「勘当」捨てる父あれば拾う父あり 、それがなければ今の私もない。

私は何度も失敗してきた。
しかし、神に従って失敗したときは一度もない
主は私を、けったり奈落の底に突き落としたことは無い
神は私を完膚無きまでに打ちのめし、罵った事も無い
逆にそうならないために黄泉に下られた方
いつも、どんな時もイエスは私に良いことしかなさらない。

私は、主にある家出を応援している。
乱暴な言い方をするならイエスも家出した。
放蕩息子のように全てを与えつくされた。
貴方が戻るなら、その旅の終わりには祝宴を用意して待っていてくださる方がいる。

31:17 あなたの将来には望みがある。――主の御告げ。――あなたの子らは自分の国に帰って来る。

イエスと共に旅をしよう。そして父の家に帰ろう。
イエスのように、反抗する息子でなく従順な息子として帰ろう。
そこに私の思いも、イエスの建ててくれた私の家もあるのだから。

31:8 見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。その中にはめしいも足なえも、妊婦も産婦も共にいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る。

31:9 彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。わたしは彼らを、水の流れのほとりに導き、彼らは平らな道を歩いて、つまずかない。わたしはイスラエルの父となろう

2010年4月9日金曜日

家出4

娘が帰ってきて半年くらい過ぎた頃、
娘と同い年で、幼稚園が一緒だった子が家に来ることになった。
その子の父は再婚にも失敗し、母は、別の家庭をもって行き場もない。
「父親に殺される」
私が親に連絡しての家出
出来ればずっといても良かった。裏山のタケノコを掘って暮らしていたという彼女に少しでも良い思いをさせてあげたかった。
私が長野に引っ越してからの12年能登でどの様に暮らしてきたのか、想像するだけでも大変だっただろう。

その時の私は、とにかくお金が無かった。
勤め人は、大変だが、来月のあてがある。
神はその時私に、務めることは、話されなかったし、
私はローンはしない事を神の前に置いていた。
もってあと2ヶ月、、家族を両方の実家にお願いする事も考えに浮かぶ
でもあの子はどうする。
今、仕事が無いという事は、=この後お金が入らない事、
悪い思いがどんどん支配してくる。せめて下の娘も中学だけは卒業させてやりたい。
そうすれば、一人でも生きていけるだろう。「お願い神様」

冷蔵庫を何度も開けてまだ少しある。ガソリンは10Lでお願いします。
スーパーの買い物に汗が出る。何度も財布の中を見る、
情けない、稼ぎのない男=無能な男に見える
子供達は互いに「もう2ロールしか無いんだから少しで、、」とトイレの所で話している。
全ての持ち金合わせて最後の一万円が無くなったら「解散」する気持ちだった。
そんな深刻な時、電話があった。 「ちょっと、用があるので来て」
何年ぶりだろうか、もう覚えてない。
大工としてその人の家を建てたが、トラブルでそれっきりだった。
正直嫌だった。どうせいつもの様に、ごみの様な何か物おしつけて、そんな事だ。

次の朝、娘の申し訳ない様な声で必用なお金を持たせたら、
あと残りは1万円になった。

する事もなく私はアポも取らず、その人の家に行った。
「いないならそれで良い、私はとにかく行ったのだ」
残念ながらいた。長いどうでもいい話、変わってない。
電話でオレを呼びつけるこの人の神経はどうなっているんだ。
「で、今日の用事はなんですか」
「そうだった、あなたにコレを渡す為に呼んだんでした」
差し出された茶封筒、
「、、、、図書券か、、ビール券ならいいな換金すれば少しは、、」
受け取って中を見ると一万円札ばかりが、、。
「これは、、」顔を見上げると彼女は「実は先月まとまったお金が入り、十分の一を教会に献金しようと思ったが、主は”まて”と。それでこのお金は何処に行くのかと思っていた。昨日祈っていたら貴方の顔が浮かんだそれで電話した」

さすがに震えた。
彼女は更に「ただし、一つだけ条件が有ります。この事は誰にも話さないで、誉れは地上ではいらないから」
まだ震える手で受け取り「ありがとう」と、言おうとすると
「私に言う必用は無い、これは神のお金だから」

それから何年かたって彼女の旦那と話をした。
「彼女は、一度、祈ると決めると毎日最後のその日まで、その人の為に一生祈っていました。」

「やっぱり、言うよ。イエスに従ってくれて、ありがとう。祈ってくれてありがとう。
あの子は今、長野でお嫁さんとお母さんやってます。いいよな貴方は今、直接イエスといる。ブログに書きました。ごめんなさい、でも地上には貴方はいないから許してください。神様、貴方は本当に生きていて今日も約束を守られ豊に与えてくださいます。ありがとう」

今は旦那さんも天にいる。私も神の舞台に出演させていながら
いつも貴方の書いたストーリーには泣かされてます。

2010年4月8日木曜日

家出3


ある朝、娘の部屋には手紙だけがあった。
3日目に探し出し、張り込み、連れ帰った。
私は「聖書」を開き、この様に書いてあること
それを私が守ってきたことを、とくと聞かせた。
大きな声で私は
「どうだ、お父さんの言っていることが間違っているか」
小さな声、、しかし、はっきり
「間違ってない。お父さんは正しい、、、、、
でも私は守れない、だから、出てい、く、、」
私は本当に自分の耳を疑った。
「ごめんなさい。私は悪い娘でした。心を入れ替えて、、」だろ?

「じゃあ、今すぐ出ていけ。夜中にこっそりと出るのではなく昼堂々とお前の足で出ていけ」(自分も夜こっそりと出たのだが)
「うん」そういって娘はスーツケース一つだけ、もって家を出ていった。
今も、あの時の後ろ姿を想像するだけで、自分の愚かさに胸が熱くなる。

それから数ヶ月、あのときほど祈ったことはない、それしかできないのだ。
ただ、祈るだけではなく、具体的に日にちを決めて祈った。「この日には帰ってくる」
人は実際経験してみないとほとんど理解できない。
私は子供によって「神の愛」がどれほどであり
私がどれほど愛の無い者であるかを知らされた。

私たちの祈りを主は聞いてくださり、12月25日に娘は帰って来た。
お盆と正月とクリスマスが一緒に来た様な日だった。
そしてそれからが古い自分との戦いでした。
主のなさることは、本当に時にかなって美しい。
それを、今日も見せていただいている。

2010年4月7日水曜日

家出その2

私が南に向かっている頃、父達は 私の部屋の手紙を手に東京へ向かっていた。
あなたは浜辺で声をかけられた男の子の両親が突然訪ねて来たらどう思います。(やめてー)
恥ずかしくて2度と彼女には会っていないです。
家出には様々なリスクがあります。

ただ、あのとき、家出しなければ、自殺か殺人も可能性があった、
実際2度ほど殺されかけた。当時の仲間内には今も精神に障害がある。
「勘弁してくれよ、こんな死に方」と知らない方に祈った。
学校関係者は当てにならない。そう思っていただけではない。
以前から見てきたし、そもそも問題は教員関係者の親から発している。
彼らの前で私が血だらけになっても問題にしたくない。

確かに、家出した先にも問題はある。
問題は無くならない。時間稼ぎにしかならないかも知れない。
それ以上の問題が起こるかも知れない。
私の父は私が帰ってくる日まで布団で横になることは無かった。
「どんな寒いところでいるかもしれないのに、ねとられるか」
みんなが家出する必用はない。
でも大人が旅に出れるなら。
小学生にも旅をする事は出来ると思う。
年を重ねた方にはその父と母をはなれるためにも、
反抗期をのがした「良い子」の最後の砦である。

かわいい子には、旅をさせよ
それは一理あると思う、そして旅ならいつか
父の家に、帰って来てほしい。
例え家が父が無くとも誠の父はいる。

3:40 私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。

2010年4月6日火曜日

家出

私は家出を奨励している。
旅でも良いのだが、基本、家庭や社会は応援しない。
決して喜ぶべき事では無いが、私の回りにはそれなりにいる。
家族の辛さや、心配、事件に巻き込まれるリスクを知っていても
家出はまだいい方の選択だと思っている。
もちろん、何も問題なく育ってくれるなら親としては楽ではあるが、
生きている限り問題は無くならない。
どうしようもないときには、自暴自棄になった行動をするより、
何年か、せめてひと月でも逃げてみることは仕方がないと思う。
逃げるって私の中では留まるより、ずっと前向きである。

私は高校卒業を控えた頃、「どこかで生きていくから探さないで」と手紙を置いて家を出た。
今でもその時の事は鮮明に覚えている。原付にリヤカーを付け、着替えや富山の薬箱まで積んでいった。霙の中ただ寒く南を目指した。
寝るところは神社や解体を待つ車の中。
最後は山口県警に補導され豚箱に入れられたが、
そこがその旅で一番快適だったという皮肉みたいな話。
扇形の宿坊で看守はそのバームクーヘンの両端のライン状に見張っている。
私は「8号」と呼ばれた。
夜中に新人がぶち込まれて来て、隣人である人生の先人達は興味津々だ。
「どこから来た」「能登から」
「何したんだ」「家出」
「親を心配させちゃいけねぇぜ」「はい(お前に言われたくないわ!)」
看守「私語禁止」

小声でささやいた。
「いつまでいるんだ」「多分明日」
「そっか」と言った彼の声はなんだか少し寂しそうだった。

最近は家出するその「家」と言う形が無い家庭が有ると聞いた。
悲しい事実だが、それでも私は言う若者達「エクソダスしろ」
ジョー矢吹のようにバッグ一つ持って、歩き出せ
そこの荒野で叫ぶものの、声を聞け
私は青少年、少女の家出を応援している。
あなたを、何一つ不自由ない生活を与え、
何よりもあなたを不自由にさせるものから出ろ
そこには様々な危険が待っているだろう。
でも、どこにいたって、あなたを応援して下さる方はいる

2010年4月5日月曜日

春スキー

昨日は日焼けする天気で戸隠でも14度くらいになりました。
妙高、白馬、志賀では、連休明けまで滑れますが、
戸隠では多分最後の滑りを楽しみました。
雪も十分あり春スキー悪くないですね。

臭い言葉ですが、
人生には滑ったり転んだりする事は当たり前です。
回りがそうさせないように、してしまう。
人には、おきあがる情熱が与えられていると信じている。

2010年4月4日日曜日

家内と良くkaraoke行きます。
「糸」良く歌ってくれますが、
ミスチルの桜井さんもカバーしてますので私もそのうち、、、、(桜井さんの歌泣かせますね)
さまざまな糸の中で同じテンションの糸を持つものは
離れていても共鳴しあいます。
少しずれていたとしてもかえってそれが美しいハーモニーになるかもしれない。
その弦が奏でる音色は天でも響き渡ればいいな。

作詞:中島みゆき 作曲:中島みゆき

なぜ めぐり逢うのかを
私たちは なにも知らない
いつ めぐり逢うのかを
私たちは いつも知らない

どこにいたの 生きてきたの
遠い空の下 ふたつの物語

縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かを
暖めうるかもしれない

なぜ 生きてゆくのかを
迷った日の跡の ささくれ
夢追いかけ走って
ころんだ日の跡の ささくれ

こんな糸が なんになるの
心許なくて ふるえてた風の中

縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かの
傷をかばうかもしれない

縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます

時代初めてラジオから流れてきたときからこの人凄いと思いましたが、
多くの方が、「良い曲が出来るときって、サーって何かが降りてくるんです」

おーい、俺にも降りてこーいぃー

2010年4月3日土曜日

糸613


朝の夫婦の会話
「あれこんなの、乗せてひどい」
「あんたいつこんなん書いた」
「はずかしい」
「自分の見せるってはずかしいよな」
「消したらだめ?」
「続きを書きたいからオレ(たぬむ)」

確かに糸はあると思う。
一人ひとりに天から降りてきてその人に繋がっている
結婚しその糸は途中から1本の糸を紡ぐ
今回わたしのまわりで起きたいちれんの流れも
裏で糸を引いている方がいる
ただ、その糸は細く弱く見えない
無理をすると簡単に切れてしまう
神に逆らい私は何度その糸を切ったことか
すると神様はその糸をたぎりよせ、つぎたし、つなぎなおす
よく出来た親のようにくりかえす
団子のようになった糸は私が愛されていたと確認できる勲章みたいだ
なんだか少し糸は太くなったよう感じる

もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は
簡単には切れない。

3本目の糸がキリストで良かったです。
聖書で確認出来ないのですが、
イエスの衣の総は律法の数
613回糸を結びあわせて出来ていた
そのふさにふれる事はみ言葉にふれること
長血をわずらうことでしか見えない糸もある

神に逆らい続けた私の衣についているふさにも613回結びなおした後がみえるだろう。
それは、今では、すこしはずかしい、私の勲章である。

2010年4月2日金曜日

赤い糸

今朝は、ピント来るモノが浮かばなかった。
パソコンの中を探していたら、
良く私のブログに出てくる家内の
だいぶ前に書いたらしい、モノが見つかった。
読んでみたら、文章力の無い彼女にしては、
まあまあでしたので載せることにしてみます。
今日は雨、じっくりして良いですね。
メルヘンチックな部分はお許しください。

では





赤い糸

昔から赤い糸がつながれている人と結ばれるというお話があります。
聖書の中には、私たちが母の胎の中にいるときから神様は一人一人をご存知でおられることがかかれています。
偶然という出会いというよりもこの人と結婚するのだという意識がお二人にはあったのではないでしょうか。
しかし、母の胎にいる前からずっとあなたに必要なすばらしい伴侶との出会いを神様は準備されておられました。
聖書には、神様が男の人をお造りになり、一人ではよくないと思われ男のあばら骨から女を造られたと書かれています。
出会った二人は、結婚して心も肉体も一つとなり
まさに彼のあばら骨にぴったりの彼女に出会えるすばらしさがあります。

ただ結婚するお二人は、育った環境も違えば、性格も違い、恋愛関係のときはそれほど気にしなかったようなことで、自分との生活習慣の違いが見えたりします。
お互い親より親密な関係を持っていますからいいたいこともいいあってより親密になるのですが問題や喧嘩などもおこってしまいます。
お二人でコミニュケーションをしっかりとり、相手が何を求め考えているか話し合いまた相手を受け入れ、お互いの足りないところを助け合いながら生活していきましょう。
また問題は何かを見るようにし、相手を攻めることや昔あったことまで持ち出すことはやめましょう。問題が大きくなり取り返しのつかないことにまで発展することになりかねません。
このように人生を二人で過ごしていくのですが、人間は完全ではなく、すばらしい方はたくさんおられますが完璧な方は、この世にはおりません。
人間には罪という問題があり、必ず欠点があります。
この罪をもっているので不完全です。
神様は人を大変愛しておられ何とかこの罪を取り除きたいと考え、人の姿をとってこの世にこられ十字架にかかり全人類の人の罪のために命をかけて死んでくださいました。
ここに愛があります。
私たちはこの神様の愛に知ることまた信じることによって新しい愛を築くことができます。神様はどんな私たちであっても受け入れてくださいます。
赤い糸は神様と私たちを結ぶ糸でもあります。
この赤い糸は、十字架にかかられたイエスキリストの血でありその贖いにより私たちは真実な愛を知り、人を真の意味を愛することができます。
神様からの赤い糸が結び合い、出会った彼、彼女がどのような場合にも受け入れあいながらまたお互いのために自分を犠牲にすることなど夫婦として成長していくことができます。

2010年4月1日木曜日

想定内

以前の3月20日の全塗装の現場が完了しました。
予定より1日短く終わり
その空いた日は
私にとっては予定外
神にとっては想定内の楽しいドライブとなりました。
明日も楽しみです。
ホント、毎日が祝日なんだなー。




で、今朝の家を出たときの朝焼けです。
そんなに綺麗にでてませんが、
気象庁も認める、ブルーの朝焼けってあるんです。

自然も奧が深い