2010年6月29日火曜日

虫、嫌いな人はごめんなさい。

昨日は仕事をしながらブログに書いた「羽化」の事を思い描いていた。
羽化する前は、ほとんど皆、死んだみたいに動かなくなる事や、
出てきた後、逆さまに、はりつけられたようになる事その時はじっと新しい足が硬くなるまでただ待つ、カニなども脱皮した後はフニャフニャだ。私の仮説だが、同時に腹部の体液が人間で言えば心臓になる「背脈管」に満ちる時を待つ時間であるかも知れない。

他にも、いくつか興味深い所がある。
羽化は虫の仲間だけの現象で、海の中に住むもの、水の中に、地面の中に、木や草の中や上にいるモノなど様々で、そのタイミングも蝉の様に7年、アメリカでは13年ゼミ17年ゼミと、タイムクロックで羽化するモノ、クロアゲハの様にさなぎのまま越冬し温度と日照時間で羽化するモノ、シロアリの様に、幼虫で基本一生を過ごし仕事が無くなってくるとリストラ対策として羽化して飛んでいくモノ、虫は空の飛び方でも4タイプ程確認されていて進化論の流れのなかでも”ムシ”されているほど多種多様。
アマゾンの一本の木を囲み虫を調査したら新種が40%もいたらしい、結構、知らないことが多い生き物です。
うんちくはいいとして、セミは色んな所で抜け殻を見ることが出来ます。
高い木の更に枝の先の葉の裏で羽化する強者もいれば工事用トラロープや駐車中の車のタイヤに付いているときもあります。ただどれも上を目指すことは同じで、それぞれが、それぞれの場所で羽化します。ただ上まで登ったから偉いわけでもなく、上手に鳴くから偉いわけでもない。命はいのちで繋いでいく性質はセミも同じで木から樹液を吸って成長する。
セミは木の命を頂きながらその体の中に留めた体液が、満ちる時が地中から出る時。
キリスト者はいのちの木からの、その働きで私たちの魂にキリストの血が満ちる時が、地上を離れる時。

写真は最近送ってもらった玉虫です。もちろんこれも羽化します。
素晴らしいのは、いのちその働きが、エンパイヤスティートビルよりも、
この小さな命を装ってくれる事。
戸隠は寒いのでゴキブリも玉虫も見てないなー。

2010年6月28日月曜日

羽化

子供の時から蝉の羽化を見るたび
宝物を見つけたような気持ちになりました。
夏の長い陽も傾きかける頃、
木の根元に穴の中からのぞいている蝉の幼虫。
その奇跡はいつも暗闇の中で、ひっそりと行われている。
背中が割れ、エメラルド色した成虫が姿を現す。
それは虫とはいえ神々しい感じすらし、天上の姿の雛形の様です。
クシャクシャの短い羽が10分ほどで竹ひご飛行機のはねみたいにピンと伸びて実に、格好いいと子供ながら感じた。
白い羽が時間とともに透き通っていき日が昇るとそれは空に飛び立つ7年間も土の中にいたあの虫が。空を一度も飛んだことのない虫にそれをさせる情熱は誰が与えてくれるのか。

ちゃんと羽化するポイントは決して人が手を出してはいけないという事。
羽があんなにもシャンと伸びるのはお腹に用意されてある体液(私たちにすれば、備えられている血)を送り込んで伸ばすそうです。「吹き戻し」のピーヒョロ~状態でしょうか。(蝉の羽は戻さないけど)

”いのちや記憶の連続性を失うことなく、「形造り直される」”とSaltさんは書いてくださいましたが、これが私、全てのクリスチャンにも起こると思うとすごいです。スーパーサイヤ人どころではありません。
蝉があんなに元気に鳴く事も納得です。それ以前は暗い所に長くいたのですから、ただ光が一定の強さで鳴き夏でも雲で陰るとやみます。雌が鳴かないのもキリストと私たちの関係?とにかく楽しみですね。蝉は以前の出る前の幼虫の体より大きな成虫が出てきます。さらに幼虫は重くどっしりしているのに、成虫は重さが無いように軽い、幼虫はのろまなブルドーザーの様な動きですが成虫はポップコーンの様にはじけています。

天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。
土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。
私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。

虫を通してでさえも自らを示して新しい命に導いてくれる神は、やっぱりすごいです。

2010年6月27日日曜日

毛虫

キッチンの窓のど真ん中に、家内の嫌いな毛虫がさなぎになって張り付いた。「やだー、これ取って欲しいけど、何か意味があるんだろうからしょうがない見るかー。」と恨めしそうな言葉。
私は横目でやり過ごしていたが、ついに明日お客さんが来る事になり家内は毛虫のさなぎに向かって「明日までに出ないならお客さん来るからあなた取っちゃうよ。」と宣言していた。
すると慌てて家内の前で羽化して出てきた。そのタイミングに私たちは”驚くばかりの”になっていた。
蛾だと思っていたら神様トンボ風のそんなに嫌なタイプでない飛ぶモノだった。
家内が畑に苗を植えても彼女は水当てが下手で雨が降る事が多い。他にもあるがここで書く事は禁止事項とされた。
私が聖書の真理を、時間と手間をかけ苦労して、あちらこちらから用いて解くのに対して彼女は何となく女の第六感みたいなもので、ポンと言い放つ。しかもそちらの方がぴったり来てるから驚くし自分の流した労苦に対して少しがっかりする。

新改訳のローマ書に
神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

とあるが自分で自分を変えられようか、私たちは髪の毛一本すら白くも黒くも出来ない。
「自分を変えなさい。」の元の意味は、さなぎが蝶になるような意味だったらしいと家内の心に残っていたから好きではない毛虫がどうなるか最後まで見たかったらしい。

岩波訳では「形造り直され」とある。そして「あなたがたは、この世と同じ姿かたちにさせられてはならない」とある。ということは、クリスチャンは両方の可能性があるということ。
それは自分でがんばって出来ることではなく命の力を信じる事。そし
て信じるものは、それを見ることになる。
家内は息子の誕生日にチーズケーキを魔法のように作ってくれた。
伴侶とは不思議なものだと思う。
最近カラオケで歌ったミスチルの歌詞が浮かぶ

育たないで萎れてた新芽みたいな音符(おもい)を
二つ重ねて鳴らすハーモニー

「ありがとう」と「ごめんね」を繰り返して

ありふれた時間が愛しく思えたら
それは“愛の仕業”

似てるけどどこか違う だけど同じ匂い
身体でも心でもなく愛している

僅かだって明かりが心に灯るなら
大切にしなきゃ と僕らは誓った
めぐり逢った すべてのものから送られるサイン
もう 何ひとつ見逃さない
そうやって暮らしてゆこう

2010年6月24日木曜日

ひとり立ち

この間Mちゃんが来てくれ久々の交わり。
キリスト教という団体の中で破船し、はたから見てもかなり苦しいところを通ったと思うが彼女はとても明るい。
ずっと外で、お互い最近の近況と主のなさった事を話し込んだ。

今朝ゴミを出しに行ったらかなり大きな桜の木が倒れ道を塞いでいた。
昨日までは立っていた。
虫が入ったわけでも病気でも地崩れでもない。
でも、倒れるだろうなと予測はして車でそこを通る時は確認していた。

以前、その木の周りには沢山の木があって言うなら「林」状態の中にその桜の木は居た。
風が吹いても直接自分には当たらず全体でそれを担っていた。
この春に、家にも原木を運んでくれたお爺さんがそのあたりを一掃した。
林の持ち主は、道ばたの桜は立派で花も綺麗だから置いておくように言ったのだと思う。
お隣と支え合っていた様に見えなくとも林の中の木は風雪に独り立ちするほどの根は張らない。いや張りたくとも張れないのだ。そもそも周りが許さない。今、立っている方も近いうちに倒れるだろう。

今でもイスラエルヘブロンの町外れのギリシア正教の教会の庭にセイチガシの大木があるらしい。「アブラハムの樫の木」と呼ばれているが、それは観光用、普通寿命300年だから、、。一本立ちのものは、聖書の中で聖所や墓地の目標とされた。

クリスチャンの多くが教会と名の付いた場所に集まり、仲間内ばかりで、神様の話をする。神の畑は広大で刈り入れの時期が来ている。ぶどう園の主人は、働く労務者を雇いに朝早く出かけるという人手不足が続いている。
主人は、部屋にこもってないで、目を上げて畑に出ていって足で歩き回り、手を動かし、収穫して欲しいと思ってないだろうか。

Mちゃんは1年ほど会わないうちにずいぶん逞しくなったように感じた。
私たちは主によって支えられ倒れても起きあがる。
世にあって一本で立つ事は難しいし無駄に土地を使う効率の悪いやり方かも知れない。
でもそんな場所こそ、自分の墓として、神の祭壇を築く所にしたい。
何処にどの様に根を下ろすか、それはいつか神の前に立つときの自分の立ち位置にも関係している。

2010年6月23日水曜日

足湯

昨日は家内の友人方が遊びに来て下さっていた。
この7年程で知り合った皆さん各々、個性的な主婦である。
皆さんの共通点は、地元出身でないことなど色々あるが、
利害関係が無いと言うことがとても心地よい。
会社や、仕事学校関係、宗教などの集まりは、どこかむず痒い所を感じてしまう。

集まれる時に集まれる場所で集まりたい人が集う。
少しの常識とマナーを持ち寄り、好きな時来て、好きなとき帰る。
大人であるとか自立とかはそんな単純な事かな。

2010年6月22日火曜日

父の日

日曜日は世間では「父の日」だとかで次女が彼氏持参で夕食を作ってくれた。「何作るの?」「言わない。」
それで思い出した様に、私も実家に父の日コールをした。

恋愛の力は偉大だ。自分の弁当さえ作らなかった次女が、こんなに上手くなっている、、。デザートはプリンとシフォンケーキ柿入り、みな食べて満足した。
龍馬伝を、見たあと家内と何も灯さず風呂(外)に入った。
雲を突き抜けて月の光が優しい。夜風が実に気持ちがよい。
神は「小さいほうの光る物には夜をつかさどらせ」とあるように、この時代の為に、小さい光であるが闇を照らす事を良しとされた。月は自分では輝くことは出来ない。 日の光を受けそれでひかってみえるだけ。
もちろん黒いとはね返す光は弱く、白いならもっと明るく地上を照らしてくれるだろう。月の世界が灰色な事は、神の配色と言ってもいい。
私たち人間は皆灰色だ。白っぽい灰色や黒に近い灰色の人もいるだろう。でもそれは見る角度や当たっている光の強さでそう見えるだけで闇に持っていくなら全て黒でしかない。
この世を少しでも明るくとか神の為に等と、がんばって己を白くしようとする行為は、「白く塗られた墓」。律法によるならただ一つの傷やシミでも「白い石」はもらえない。
人の努力によらず、ただ神の前に白くされる事。神は言葉を用いてこの世を救おうとなさる。


聖書では「雪より白く、、」と書かれている。白に近い灰色では無く「父」はそれを求めている。
そこに映し出されるものは、何を写しても美しい。
ある意味でクリスチャンにとっては
毎日が「父」の日でもある。
自分がこのような形で祝ってもらう時が来る事は何だか不思議な気持ちだ。

2010年6月21日月曜日

うちの裏には、ナラの木がある 。
数年前に、井戸小屋の脇に爪楊枝程の細さで、ひょろりとあったものを「ここでは、枯れてしまうだろう」と日当たりの良いところに移設した。
葉を見てナラだとは知っていたが、楢は硬く良い薪や家具材になるが、成長は遅い。人の背丈まで伸びるのに8年程かかると聞いていた。「枯れずに育つと良いな。」そのくらいに思っていたのだが。
3年ほど前のある日、家内と二人で驚いた。
あの弱々しかった木が見上げる程になっていたからだ。その時は家内も「これ、どうしたん↴」と聞いていたほどショボく見下ろしていた、あの木が、、「どうしたん。これ⇪」って。
もちろん聖書の中でも楢の木は何カ所も出てくる。
翻訳の問題で日本語訳では樫となっているがKing Jamesで見るとちゃんとOakとなっている。

家の楢、今では高さ9m私の家の屋根程になり、一番太い所は直径30cm程、枝を張り伸ばして下にピクニックテーブルを置いても良い日陰が出来た。
家の楢がここまで生長したのは水路の側に植えられたからだ。

聖書詩編1章1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

水辺では、楢は根腐れして駄目だったろうが、水路は地面より水面が低い。うちは1m程下を畑の横の泉から絶えず流れ出ている。水路はたまたま出来ない。それを誰かが何かの為につくったモノを示す。私は以前そこに水路を作り池に岩魚や山女などを飼っていた名残なのだ。水路は水で出来ている道。イエスは「わたしが道、、」と言っている。


独立や開業、転職などでどうしたら食べていけるか成功するか、私の天職は、など職種を悩む必要はない。
神と共に、神の言葉と共に、その人は、何をしても栄える。
神があなたの為にわざわざ水路を引いてくるからだ
最近知ったが楢は幹は爪楊枝程でも根は割り箸程になっているらしい。
見える所より見えない所にちからを入れている木。
神や私たちにとっても、栄えることは、副産物であってそれ自体は目的ではない。
主と共に歩むことそれが素晴らしい。
その木を見上げるたびに、神の言葉は真実なんだと知らされる。

2010年6月20日日曜日

ニセアカシア

6月16日の「湖面」の写真でも写っているが、
ニセアカシアが花を咲かせている。
蜜が多いことでも知られ、
付近に甘ったるい臭いを振りまいている。
過酷な場所でも非常に早く成長するのは自前で窒素を調達できる豆科の特性の故らしい。
しかも「ハリエンジュ」の異名通り針があり土壌にも枯れた後も残り続ける。
政府も自分で導入して恩恵にあずかったのに、手のひらを返すように「侵略的外来種」のレッテルを貼らされたニセアカシア。

日本では「アカシア」と混同され古くは西田佐知子のヒット曲「アカシアの雨がやむとき」、石原裕次郎の歌、松任谷由実の「acacia (アケイシャ)」やレミオロメンの「アカシア」もすべてニセアカシアに関するものである。蜂蜜でもアカシアとあるのも同じ事。本来のアカシアはネムノキの仲間。でもパッと見、よく似ている。

アカシアは聖書にも出てきて有名どころでは契約の箱に使われている。たまたま「おい、これあったからこれでいくべ。」ではなく。○◎でなければならないと言った厳しい律法により指定されている。ただ、アカシアは普通大木にならず、特に荒野では、まっすぐに生えずねじくれ曲がりしかも加工してからも、あばれる厄介者。
だから十分暴れさせてから、小さなピースにしてそれを組み合わせて作り上げるしかない実に手間のかかる非効率な木を神はあえて選んだと言える。
レバノン杉なら一枚板で作れただろうにと、私などは考える。
幕屋といわれる場所には外庭、聖所、至聖所とあるがそのなかでも最も聖なるものと言われる「贖いの蓋」なぜなら人が守れない律法をおおい隠すモノだからこそ尊く有り難い。
それはイエスそのものでもある。それがアカシア材で作られているわけで確かに濃いオレンジ色の組木細工の蓋は綺麗かも知れないが、純金をかぶせて材を見えなくして完成となる、両端には、ケルビムという天使も見つめる形になる。

話はずれたが、強制的に移植され勘違いされ利用され悪者にされるニセアカシア名前にも「偽」って、勝手に付けられている。
根や幹、枝は有毒だが花にだけは毒がない、で今年はテンプラにしてニセアカシアに感謝して頂いてみたいが、ちょっと時期すぎたかも知れない。

2010年6月19日土曜日

ミズキ

画像が欠けてしまいましたが、野尻湖に咲いていたミズキの花です。
斜面の上に立つ別荘の屋根から撮ったので花が見えますが、
いつもその花はただ空に向かって咲いています。
同じ仲間のヤマボウシやアメリカから来たハナミズキと違って大きな木にならないと割と花を咲かせない性格と、地味な花なのに、上にだけ咲かせる特質上あっちこっちあるわりと、あまりめにとめることがありません。
でも、その小さな花はとても可憐で、ただ天に向かって花を捧げるかのようなミズキ、なかなか良いです。
見習いたいと思います。
2枚目の写真は家の屋根の上に登ったときのミズキです。
乾燥した土地より水分の多い所に良くみかけるのでそんな名がついているのかなとも思います。この木も長い間、私の目を楽しませてくれます。

2010年6月18日金曜日

食事

聖書では聖餐式は食事の中で、行っていたという話を以前Saltさんと話していた事もあり戸隠に来ていただいた時は食事の中で実際に聖餐式をと、思っていた。
彼が泊まった日曜日の夜、夕食のメニューはタコスだった。
当たり前だが家内の作ったタコスの皮には種が入っていない。
私は去年作ったワインを出してきて
「じゃあ、聖餐式やりましょうか。」と切り出した。

Saltさんに、パンを裂いてもらい祈って頂き口にした。
味はいつもと変わらないタコスの生地だ。
「じゃあ」とワインを渡されたので今度は私が、注ぎだし祈り飲んだ。
アルコール類は苦手な私だが、手作りのこれなら私も飲める。
その後同じパンと葡萄酒を飲みながら夕食を食べゆっくりと話をした。

儀式とは不思議なものだ。
頭で考えても、それをする事によっては私は何も変わらない。
それを行うことで私がきよくなるわけでもない。

私たちがそれを行う理由は聖書に書いてある、というただ、それだけである。
色んな意味を説明しようとすれば出来る。でも、それを私が行う理由は聖書に書いてあるからしかない。
クリスマスや受難週、イースターは、クリスチャンには、関係ないが、聖餐式は必要だから書かれている。

こう、聖書には書いてある。
イエスは、「私を覚えてこれを行いなさい。」

イエスは忘れないようにこれをしなさいと言ったのではない。
キリストは今も生きていて、今日も新しい、そして常に私に、新しく語りかけ、新しく導き、新しく与え、新しく許してくれ、新しく解き明かししてくださる。
同じ日は2度と無い、常に新しい時間をキリストと共に生きている。
主のして下さった事を、覚える。
感謝の心が足りない私にとって実に適切でありがたい。

当たり前の食事の中で、時間を取って聖餐式が出来たことが、うれしい。
赤い夕焼けは美しい。
しかし、時折見かける蒼い夕焼けも、実に美しいものだ。
その青には神のきよさや、正しさが感じられる。

2010年6月16日水曜日

湖面

今朝は雨です。
雨音はゆっくり寝れます。

昨日は屋根の板金工事をしていました。
梅雨の前に屋根を張れて良かったです。
屋根から見える野尻湖が、綺麗でした。
たたえられた水を見下ろしているとホッとします。
湖面がこんなにも青いのは、空が蒼いからです。
空が灰色だと、湖面も灰色になります。
今日は暗いので、湖面も暗い事だろう。

聖書の中に、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」という箇所があります。
様々な人間関係の中で、そうありたいです。

そしてイエスも、人として来られたと書いてあります。
キリストの霊が喜ぶとき、私の魂も喜ぶ
キリストの霊が悲しむとき、私の魂も悲しんでいる、 ならもっといいな。

彼の霊がリードして、私の魂が合わせて踊っている。
野尻湖の空の色を映す、水を見ていたらそんな気がした。


2010年6月15日火曜日

バナナブレッド

今週は少し肌寒いくらいで昨夜も薪を一焚きして実に快適。
だが先週までの気温で信濃町へ、行く途中にある雪がほとんど無くなってきた。
バナナも暑くなるとすぐ柔らかくなってきたので、定番のバナナブレッドを作ってくれた。
ズッキーニや柿のも、ブレッドにしてその時期には美味しく頂いてます。
今年はズッキーニ上手く出来るといいのだが。
簡単に出来るようでなかなか。

今朝の夫婦の会話
「おっ、日本、カメルーンに勝ったんだ!」
「カメレオンには勝つ事は難しいの?」

ちょっと返事に困るが
カメルーン、カメレオン、カナイ、皆、変幻自在と、いう共通点はあるかもしれない、、、。

2010年6月14日月曜日

オフロード

昨日の午後はWRさんに誘っていただいたので
松代→菅平→真田→坂城と土の感触が楽しかった。
長野にはまだこんなにも舗装されていない
美しい道があることが、うれしい。
私の影響か、長男などは車で通勤などでも
舗装路を走ることより雪道などの方がスムーズで好きらしい。
長男は決して無謀な運転はしない。
交通事故どころか違反する感じすら無い。
性格もあるかも知れないが、バイクで土の上を走らせていたことが大きいと思っている。凸凹、細い所、滑るところ、急な所、岩や木の等、走りにくい道ばかり走らせてきた。
技量により行けない行ける差がはっきり出る。良く転び、それを悔しがったり笑ったりする。
すると道というグリップに頼った所で飛ばす危険性や、わざわざ平らで走りやすく作った場所では刺激も無いので淡々と走るのだろう。オフロードではバランス感覚がとても大切だ。

偉そうな事は言うつもりはないが、人生も似ている様な気がする。
広くて平らな道より狭くても、時々転んだり、泥をかぶったり、誇りだらけになったり、越えられるかと思うセクションがある道を走っているような気がする。オフロードとは道から外れたところという意味だ。
自分の生き方を振り返るとそんな気もしないわけでもない。

7難8苦を与えて欲しいわけではない。ただギリギリの所を抜けて行けたときの喜びの方が、舗装された沢山の人が走っている、淡々とした道より何だか楽しい、だからその道を選んでいるのだろう。

それにしても昨日連れて行ってもらった所は変化に富み素晴らしい道だった。
初めて走る道は実に楽しい、今、走っているその先がどうなっているか知る由も無い。
ただ、そんな小道も十分な知恵と力と勢いに満ちた方と一緒だったから走り抜けてきたしこれからもそうだろう。そして行き着く先には、私の住むべき所がある。家に無事着くまでが、なんにしても大事です。
そこには待っている方がいるのだから。

2010年6月13日日曜日

マニュアルの結婚vol 4(取りあえずラスト)


彼女の指にも指輪がある。
じゃまにならないシンプルなものというリクエストで長野に来てから私が水道管の残りで作った物だ。(電気屋は水道工事も、するときもある)


いつかちゃんとした物を買っても良いと思っていたのだが、
彼女はそれで十分と言っていた。

結婚20年に小さなダイヤの指輪をプレゼントした事があるが、そちらはネックレスにして使っているようだ。

私たちは性格も考え方も本当に違う。
一言でいうなら、私は効率優先で、家内はゆとりをもって、良しとする。
1円でもやすい牛乳を探して買う彼女に、何十万もする生活必需品でないモノを買う旦那
最近は彼女も効率を少し理解し、私もゆとりを持ってきたのかなぁ。

夫婦は何故か似てくるものだ。
だからこそ結婚には、価値がある。

が、最近は私に似すぎて困ることも、、。
「あなたが私をこんな風にしたのよ。」
うーん。

2010年6月12日土曜日

マニュアルの結婚vol 3

今、気付いたが、ずいぶん彼女とは色んな約束をしている。
契約はある意味自由を制限するものだ。
私の大切な私の好きな自由を神が私に下さった自由を。
私は結婚指輪を拒んできた。奴隷制度の名残とも言われるものを何故この私が、そんな物で私が変わるものでもない。「実際に見える形じゃなくともいいじゃないか。気持ちの問題だよ」と言ってきた。

ある日家族で大型店舗に行ったとき。中央に宝石を売っている場所があった。
家内と子ども達が「お父さん、面白そうだから、一度だけどんなリングが似合うか付けてみようよ。お願い。」と、なり渋々家族サービスとしてそうしてみた。はめてみるとこれはあまりにも無骨な私の指にあわないとかキンキラはやだ、とか少し本気モードに。いくつか付けてみてその中のプラチナに純金の輪が入り裏にサファイアが入っているリングが気に入った。ちょろっとプライスを見る。良い物はやはり高い。「はい、じゃあ、おしまい」となったとき。家内が言った。「これお願いします。」「なに馬鹿なことを言っている。お金持ってないし。」「私のお金があるから買ってあげる」それは、家内のその時貯めた内職のほぼ全額だった。「俺はいらない。そもそも付けないし。」「あなた、人に付けさせているのだから自分も付けた方がいいから。」「、、、。」

結局、買ってもらわされた。
私は言った。「こんな高いの、、勿体ないよ。」
家内は「これであなたが手に入るなら安いものよ。」
彼女は少しうやうやしく、私の指にそれを付けながら、笑ってこう言った。
「これで、あなたは私の奴隷よ。」

「あなたの奴隷なら悪くないな。」

愛って言葉は何だか臭いけど、
イエスキリストはそれゆえに、自分を制限され
実際に見える形で人となられて過ごされた。
不自由な中にこそ自由が有ると思うときがある。
エデンの園もそうだったと思うが、神の与えてくださる愛という「枠」は
決して窮屈なモノではなく私の自由を奪うものではない。

金はだいぶすり切れて消えてきたが今も私の指には、
指輪がある。今は決して嫌だけど付けている訳でもない。

2010年6月11日金曜日

マニュアルの結婚vol 2

クリスチャン夫婦が多分ですが、よく言う言葉(?)に「もし、神様と出会わなければ私達は離婚していただろう。」が、あると思っている。
実は、私もその一人だが、クリスチャンでも十分離婚出来る。残念ながらクリスチャンに出来ないことは無いのである。
ただ、クリスチャンとして生きることは生まれついての私と違う行動になる。
私がキリストを信じ、「長野に行くことが神の道」と伝えたと時、私を産んだ母でさえ怒り呆れ、家内に「こんなアホな男とは離婚して、あなたは、この家に残れ」と言った。
私は家内に言った。

「俺は長野に行く、俺と一緒についてきてほしい。約束する。あなたは必ず幸せになる。それだけではない他の女が見て”あなたは幸せね”とみんなが羨ましがるほど幸せになる。」

それが、3人目の子を身ごもっていた彼女への2度目のプロポーズであり、
その時まで、ただ好きで一緒にいた私たちのギヤを変えた瞬間だった。
不幸は具体的だが幸せは抽象的だ。これが幸せという形が無い。
家内を幸せにする方法を知っていたわけではない。
ただ私には自信があった。
神に従って不幸になることがない。神は常に神にとっても私にとっても最後には最善で最良をなさる。
だからそんな神に従っていく私に、従ってついてくる妻を神は絶対幸せにする。

私には自信が無いが、主なる神には絶対の自信があった。
家内はその時、神を信じていたわけではなかったが、私の言葉を信じてついてきてくれた。

信仰とは神とその人の1体1のものであり、檀家や世襲などはない。
ただ一つだけ例外はあるかも知れないと思える出来事を聞いた。
軽井沢のあるご主人は、誰にも内緒で書斎で聖書を読んでいた。
ある日イエスキリストこそは神であり私の救い主だと信じるにいたり、書斎から出てきて彼の妻に「私はキリスト者になった。そこで聖書に書いてある通り私は洗礼を受けたい。」と奥さんに伝えた。
彼の妻は「私はいつもあなたを信頼してついてきました。あなたの信じた神を私も信じて洗礼を一緒に受けたいと思います。」と言い、彼らは洗礼を受けた。
彼らはその後、教会の良き働きをなさっていると聞いた。
聖書の中で女性が信じたという書き方はそんなに書かれていない。
たとえば、サラは”彼女は約束してくださった方を真実な方と考えた”と書いてある。
神を信じてすごす事と神に従ってすごすことは、同じかも知れない。
家内は私の母でさえ「息子はおかしくなった」と思った私を「この人は本気だ」と信じてついてきてくれた。私はそんな彼女の信頼を決して、裏切る訳にはいかないのである。

ベッドルームの壁には、まだ結婚のなんたるかも知らないパンチパーマの私がいる。
よー、こんな男についてきたなー。

2010年6月10日木曜日

マニュアルの結婚

結婚とは不思議なものだ。
誰もが幸せをそれに重ね合わせ、そして誰もがほぼ失敗する。
いつか必ず、恋したときの、あの不思議なメロディは消えてしまう。
駆け落ちするほど燃えた二人が、離婚することも多く
親が向かいの息子の所行けと言われ嫁いで50年結構幸せに過ごしている人も見てきた。
恋はロマンチックだが、結婚はオートマチックではない。
途中でギヤをシフトしていかないと、ローギヤのままでは、不快でこんなうるさく遅い車からは降りてしまおうと考えたり、ついにはエンジンが焼き付いて立ち往生してしまう。

自分の事を思い返すなら家内とは、好きで結婚した。
別に結婚したかった訳ではない。
いつも一緒に居たいからそれを叶える唯一に近い方法が結婚だったのだろう。
だから結婚したかった。
もしその理由が無くなったり優先順位が変わったらどうなるのだろうか。
好きでもない。一緒にいて楽しくない。もっと好きな人が出来た。
などこれは十分ある。
人の気持ちは変わるもの、コロコロ変わるからココロと言うらしい。

だから契約で縛るが、現実は厳しい。
契約が逆に首を絞めることにもなる。
ハーレーを買うとき反対する彼女を説き伏せる為に契約を結んだ「5年間バイクを買わない」つくづく誓ってはならないと聖書にある言葉の真実さを思わされている。
私のサインした紙が怖ろしいのではない、それを破ることは彼女との約束を破ることになるので、私から見て超真面目な彼女に離婚を切り出されると実に困る。
バイクと妻どちらを取りますかと言われたら、、、あなたはどちらにしますか。
ただ、契約には守りもある。それによって私の悪癖も押さえ込められている。
結婚とは実にありがたいものである。

2010年6月9日水曜日

青い空

セキレイの雛が日曜日の朝飛び立った。
5つの卵のうち4つが孵り、一つが残った。
4羽が無事、巣立って良かったのと同時に残った一つの卵に色々な事を思う。
人間的には寂しさや何故こいつだけ、とか思うが
今のこの世界では、神が造られたままの「見よ。それは非常によかった。」と言われた状態とは違っている。

私は物を擬人化したりしないが、やはり考える所は多い。
今回バイクに乗ろうとしたら、2台がエンジンがかからなかった。
物理の第二法則とも言われるエントロピーの原理によって全ての物は壊れていく。
バイクに治癒能力は無い。
持ち主がいわゆる愛情を注ぐ事によってのみ物は維持されていく。
命だけがこのエントロピーと真逆なベクトルを持つ。
バイクが本来の目的である、あるじを乗せて走ることもないなら、相手にもされず、忘れ去られたり、ただ、うち捨てられ、なおされることもなくその宝石の様なマシンがゴミになっていくなら、それはバイクとして作られなかった方が良かったのだと私は思う時がある。


「若い時に、あなたの造り主を心に刻みつけなさい。老人になって、希望がないという日が来ないうちに。年を取り、太陽や光や星がかすんでよく見えず、夢も希望も無くなってしまうその前にそうしなさい。人はだれでも、やがて手や足が震えるようになり、背骨は曲がり,歯は抜け、視力が衰えて来、耳は遠くなり、良く聞こえず、朝早く目が覚め、声はしわがれてしまう。また息切れがして、坂道を登るのが大儀になり、足の自由がきかず、立ち往生し、頭髪は白くなり、のろのろ歩き、性欲も無くなり、死に向かっていく。こうして、ついに命の終わる日がやって来る。人の体は土から造られたので、土に帰り、霊はこれを授けてくださった神のもとに帰って行く。」
伝道者の書 現代訳

軒先などにシートをかけられそれも破れ、長い間使われていないオートバイを見て、持ち主に話をかけることがある。「今ならまだなんとかなる」どう考えてもまた乗ると思えないオーナーの言葉は「手放したくない」「売る気はない」バイクが好きなのだろう。何かの思い入れがあることはわかる。ボロボロになり朽ちることも持ち主の自由だろう。でも本来の目的が果たされず、使われることもなく壊れていくのを見ることは寂しいものだ。
自分の持ち物さえ十分な管理が出来ない私は自分の人生の管理を本来の持ち主である方に渡して良かったと思う。私の中の命がそれを喜んでいる。
今回セキレイの物語を見させてもらったが、もし私がそれを知ることも無かったとしても、神は見ておられ、その孵った4つだけでなく孵らなかった1つも、私以上に知っておられる。

天国の事はわからないが、その一つも青い空を飛ばせてもらえるといいなと、考えたりする。天国を見る日が楽しみだ。
それは、ひじょうに良いのだから。

2010年6月8日火曜日

土、日、月と3日間奈良から来て下さったSaltさんと遊んだ。
「遊んだ」という言葉は少し不謹慎にも自分でも感じるが「遊んでもらった」のでも「遊んであげた」のでもなく他にぴったりの言葉を知らなかったので今回は御許し願いたい。
責任のある事やその場所などにおけるリスクなどもあったが全体を通して私は何もなしていないが、私たちはすでに得ているのである。ただ主のみちびき、緩やかな風の中で私の性格の為に彼を色んな事に引きずりまわした、と、いうだけなのだろう。

古道を歩き、バイクに乗り、湖を渡り、蕎麦を食べ、風呂に入った。
わずか3ヶ月前にはお互い名前も知らなかった関係とは思えない旧友のような気持ちで私のくどい話を苦虫を噛んだような顔もせず聞いてくれた。学生の時と違って友達を作る事が以外と大変だと気づかされる。
作ろうと思っても作れるモノでのない。

「友」とは、私にとって軽くない。聖書には「その友の為に命をすてる」とあるが、親は子のために、優等生・岩清水は早乙女 愛に「君のためなら死ねる」とは言ったが、友の為に死んだら残された家族や養うべき自分の子どもや時間はと考えると深い。
損得勘定や善悪、又は義務や使命の問題ではなくそれは「愛」の働きである。
本来の私の中に「愛」は無い。
だから「信仰」の問題と言っても差し支えないだろう。
誰が何のために、何処で、いつ、誰のために、何をするべきか生まれたままの私はしらない。
基本、人は自己中で自分勝手だと思う。


『朋』は、同じ先生に習った『友』だと以前のコメントに書かせてもらった。
私たちにとって同じ先生とはイエス キリスト。
彼は私にとって唯一の牧師であり、私たちの為に死んでくださった唯一の方。

また彼の事を知りたい、聞きたい、話したい、一緒にいたいです。
とりとめも無い時間をバカみたいに過ごしながらそこにおわす方との時間は網を置いて彼についていったペテロと同じだと私は信じている。

今朝、メールをあけたらMさんからセキレイの雛が無事飛び立ったと連絡が入っていた。

Saltさんが分かち合ってくれた言葉が思い起こされた。

主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。

あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。

見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。

若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。

幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。

2010年6月6日日曜日

『朋の遠方より来る有り、亦悦しからずや』


昨日は久しぶりに日が変わるまで、話していた。
今朝も素晴らしい天気だが、昨日も主がくださった空が共にあった。朋(とも)と長野市からベッカライのパン屋に行くと実は話がつながる出会いのサプライズがあって「なんでここにあのカホンがあるの」と私も楽しく驚いた。
主はいきておられる。私は深く考えず寄ったのだがそれは主の巡り合わせの中での必然なのだ。

戸隠の古道を歩いて帰りは森の中を話しながら二人で歩いていた。話していた内容はキリストの事ですれちがう人は「何を話しているのだろう」と思ったことだろう。森を抜けて家内に「今から帰る」と電話したときは夕方の6時45分だった。画像はその時奥山まで行ったときの戸隠連峰をバックにシルエットになった朋です。

2010年6月5日土曜日

紫いものシフォンケーキ

紫いものシフォンケーキ 17㎝ (1個分)

卵黄分量             メレンゲ
卵黄(M)3個分          卵白(M) 3個分
グラニュー糖  20g       グラニュー糖  30g
きび砂糖    大さじ2     きび砂糖  大さじ1
牛乳   65cc  
サラダ油 55cc
薄力粉  60g              オーブン温度  180℃
紫いもの粉 大さじ3強          焼く時間    27分
レモン汁  5滴              竹串をさして生地がくっつかなければ
甘納豆  50~100g           焼き上がっています。

作り方
  *卵黄と卵白に分ける
1 卵黄を泡立て器で混ぜ、砂糖類、サラダ油、牛乳を入れて白っぽくなるまで混ぜる。
2 1に小麦粉と紫いもの粉大さじ2強をふるって、1にしっかりと混ぜ、レモン汁を5滴加えて混ぜておく
3 卵白を泡立て器で混ぜ、グラニュー糖を加えてしっかり泡立てる。
  しっかり泡立てたあと大さじ1のきび砂糖を加えて混ぜておく。
 (ボールをひっくり返して  も落ちてこない)
4 2に3の卵白をさっくりと混ぜてさらに大さじ1の紫いもの粉をさっくりと混ぜ甘納豆を加えて型に入れてオーブンで焼く。
5 焼き上がったら型にいれたまま逆さにし、冷めたら型から出します。
 
家庭で作るので普通卵白は卵黄より多くなっていますが、3個、3個で作りました。
卵黄を残したくないだけです(^^;)
紫色にすんなり作れたのにいざ作ってみるとぜんぜん色が紫でなくてインターネットで調べたら
”紫色は酸性では綺麗な色ですが、アルカリ側(ベーキングパウダーとか、重曹)では凄い緑色になってしまうのでご注意を。レモン汁などを加えて下さい。”とありました。あの時の綺麗な紫色は~何も考えずに作ってみたけれど、主人がなにかのささいな量で色が変わってしまうとのこと、そういえば思い当たる節があると思いだしつつ、そしてインターネットでレモン汁を加えると良いとのことで少し加えてみました。
きっとこのレシピで作ってみても紫色が出ない場合もあると思います~
何か作ってみて紫色がでるための情報ありましたら教えて下さい。

旦那の追記です。濃い緑、パステルグリーン、茶褐色、紫、赤紫、、それらのマーブルと実に多彩に色が出まして、リトマス試験紙を連想させてくれます。料理は科学。  
シ フォンケーキは軽く食べられるのでずいぶんと作ってくれて、
 感謝

2010年6月4日金曜日

君は僕の、、

「君は、僕の太陽だ。」
昭和にありそうな言葉ですが、ある意味それは正しい。
発熱密度という単位があります。
1kgあたりの発熱量を表すものですが、人の発熱密度は、太陽の1万倍というすごさです。人の脳だけをみれば10万倍というデータがある。(しゅくやまさのり教授より)
人の体温37℃を保つためには、もの凄いエネルギーがいる。
そんな存在の人は上手く放熱しないとオーバーヒートしてしまう。
正確には「君も、そして僕も太陽以上に燃えているのだ。」となる。

ダイエットに成功したりするとすぐ○◎ダイエットと言う本が出る。本来、人の体はこのエネルギーを膨大に消費続けながら生きる為に、何千年もの間、空腹や飢えにもの凄く強く作られている。わずかな食物で働き、余分な分は少しでも脂肪として蓄えていくそれは、生きていくために必要な事だった。
逆に考えると人は飽食や、運動不足に弱い。一部の支配層を除き、人類の歴史の中で動き回らなくても食べ物が手に入るそんな時代は、無かった。人が糧を得るために動き回る事が働く事だった。

100年に一度の不況とか言われるが、食べるものが無くてやせこけ何でも良いとにかく腹を満たしたいという人は、今の日本でほとんど見ない。水や電気だけでなくケータイまで持っていてお金がないと言う人を私は、日本人としては理解できるが人間としては疑問に思う。仕事がない-外国からも人材を導入しているこの国が、中東、ブラジル、韓国の方がこれだけ働くこの国で仕事がない-それはおかしい。
ましてや、お金が無くて借金をしてまで全ての子どもに小遣いのような金を出すこの国。誰だってローンを組んでまでお年玉を孫にあげようとする人をおかしいと思うだろう。

以前、生命力の強い植物の退治方法を聞いた事がある。
例えばニセアカシアなどは、苛めても虐めても出てくる。
そんな木にはあえて切らないで少し伸ばしておき、その木の外側の皮だけをぐるりと剥ぎ取ると少しづつ衰えていくと聞いた。日本でもキリシタン禁令が出たときに、ただ弾圧すると彼らは燃え団結し勢いづいたが、優しく扱い贅沢させてから少しずつ削り取るように引き離すやり方の効果を聞いた事がある。

昨日は夕立の様な雨のあとゆっくりと沈んでいく夕日を見ながら思った。
この太陽以上に凄まじいその命の力を発揮できる時代が又、あるのだろうか。
がんばれ!ニッポン 燃えろ日本!とは言わない
大変な時代が来たときにそれに耐えられる強さを与えてくださる事を、願う。この地方でもやっと田んぼに、また苗は植えられた。

2010年6月3日木曜日

確かな事

人は絶対的な存在に憧れる。
でも、もし自分がそうなったなら耐えられないだろう。
「孤高の存在」という言葉もあるが、
絶対的な存在は比べることやライバルどころか本来、近づくものさえいないと思う。

私が中学校の時だった。ジャージ姿の体育のU先生が6時間め教室に入ってきた。
「教科書をしまえ」とは言わなかったと思ったが、それは使わない授業。
「なあ、これだけは確かだと信じてもいい事何か知ってるか。言ってみろ。」
ざわざわしていたが、だんだん静かになっていった。
「世の中は移り変わっていくものだ。だから昨日までのように明日が来るかわからない。-来週またウルトラマンや馬場が勝つか負けるか、それどころか放送する事さえ確実じゃない。」考えてみた。信じても良いこと。色々あるようで確実な感じがしないことも多くある。
愛情や友情、時間や日本人であること親やお金、好きな食べ物やお気に入りの靴などディスカッション式の授業はこの議題だけで1時間使った事は良く覚えている。

6時間目のチャイムが鳴った。チラリと腕時計を見た先生はこういった。
「一つだけ先生の考えを言うぞ。それは今、自分がここにいるということだ」
みんな、わかったようなわからないような、ポカンとしている奴もいたと思う。
「ホントの様な”夢”を見て覚めた後あれがホントかも知れないと思うときもあるだろう。でも、そんなことを考えている今の自分こそが確かな存在で、自分が生きている、ここに確かに存在していると、いうことそれは信じてもいいと先生は思っている。じゃあ今日は終わる。起立!」

時間の関係で少し中途半端な終わり方になったかもしれない。
たぶん、先生は生きているということを、今を大切にしろ、と言いたかったのだと思う。
今、自分は生きている。でも死んだらどうなるのだろう。死後の世界ってあるのだろうか。
もしあるなら、そこはどんな世界なのだろうか。今の世界と、どう関係しているのだろうか。天国はあるのか地獄もあるのか。それを管理し決めるのは誰なのか。それを私たちは”神”と呼んでいるのだろうか。神はいるのか。もしいるなら、その”神”を知ることは出来るのか。もしいても知ることが出来ないなら、それは、いないのと同じじゃないか。

そんな思いがグルグル頭を回った。確認するために一度死んでみるかとも思った。でも、いつか死ぬなら今じゃない。とにかく親は悲しむだろう。最後には、そう思った。

「孤高の存在」という言葉の通り、人の思いを遙かに越えた所におわす神はある意味孤独だろう。
”私はある”と言う神は足りないことも無いだろうが、聖書にはそんな”お方”が、人となってこの世に来られたと書いてある。
絶対的な方が相対的な世界に来られた。神はいる。
それに気づいてから、その方は誰で、どんな方なのか本当に知りたかった。

使い古された言葉ですが、人類が月を歩いた事より、神が実際にこの地上を歩まれた事は驚くべき事である。
神という漢字は示す申すと書く。そのお陰で今、私 は神を知ることが出来たのだ。誠に有り難い。

ハート形の陶器のケーキ型をもらったお家の玄関先ではその狭いスキマで小さい命が元気に確かに生きていた。

追記.小さいので画像をクリックすると見えます。更にもう一度クリックするともっと大きく見えます。

2010年6月2日水曜日

絶対

でかいバイクに乗っていると聞かれることは「それなんcc?」
そ聞いてくる人をバイク業界用語で、「ナンシー」と呼びます。
次に聞かれるのは「それいくらするの?」いわゆる「イクラ」ちゃん
自分の想像より上だと「うーん、」となり、下だと「ふーん、」
このような聞き方は 男が圧倒的に多い。対して女性は「私ものれるかな-」とか「かっこいー、今度後ろに乗せて!」など違いがあるのが面白い。


日本人は比べたり評価する事が好きだ。
だいたいにおいて人は相対的にしか物事を判断できない。
私の乗っているバイクの車検証には排気量1530cc重さは350kgと書いてある。30年前のポンコツ、最後の鉄シリンダー確かに大きくて重い。
体調の悪いときは倒したら起こせない時もあるかも知れない。
しかし、それとて比べての話で、どうでもいいことだ。
素樹さんの「クミコハウス」の中にこんな話がある。

ある夜だった。タカシとバナラシで思い出話をした。
小学校の体育の先生がホイッスルをぶら下げたまま代理で教室にきた。
「教科書をしまえ」そういって黒板に大きく字を書いた。

”絶対”   
「読めるか!」もちろん読めた。いつも使っていたから。
「それじゃ、この言葉の反対の意味を知っているか」
クラスじゅうが、しん、とした。少ししてクラス委員長の井上さんが手をあげて「相対です。先生」「そうだ良く知ってるな。」井上さんは照れてうつむいた。
「相対-何かが起きたりする度に物事が変化する関係を言う。だから絶対、っていうのはその逆で何があっても変わらない事実の事を言う。物事にはこの2つしかあり得ない。-それじゃ聞くぞ。絶対って言えることって、いったいなんだ」
先生は見回した。みんな黙っていた。
「じゃあ、井上お前何だと思う」
井上さんは少し考えていたが結局は答えられなかった。
「誰かいないのか」
クラスじゅうが皆で顔を見合わせていた。
「じゃあ、教えてやろう。この世に絶対と言えることは一つしかない、それはお前らはみんな必ず”死ぬ”ってことだ」
「誰も彼も死ぬ。犬も猫も草も木も鳥ももちろん俺だってみんな、死ぬんだ。生きているものは絶対死ぬ、それ以外ない。これが絶対だ。」

タカシはその夜眠れなかったと。自分が死ぬって事をその授業で教わった訳だ。
それが物心がついた日としてタカシは今日もその日のその時を覚えていると言った。
「とにかくあれが始まりだったと思う。俺はその時から世界の全てを見てやろうとおもったんだ」タカシはバナラシの満月を見上げて「あの夜も満月だったな」とつぶやいた。

この全てが相対的な世の中で絶対的なご自身を神は隠しておられる。
有限な世界で、無限をはかる、時計や物差しは無い。

箴言25:2 事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。
  25:3 天が高く、地が深いように、王の心は測り知れない。

神が隠された事を探り出すのは王なるイエス、彼の心もまた、計り知れないが信じることは出来る。
それは神の恵でしかない。

2010年6月1日火曜日

そして朝食です。

今朝はコロッケと一緒につくっていたシナモンロールが
朝食に並びました。
右は抹茶に甘納豆、中央はブルーベリー、左はプレーンです。
粉砂糖を溶いてかけますが、
私はそのままで十分美味しい。
フラッシュを焚いたので実際はもう少しきつね色です。
今週は天気が良いみたいですね。