2014年3月31日月曜日

ガソリン満タン!

 人々がイカに、税金を収めたくないかは、ガソリンスタンドの混雑でも良くわかる。
環境税と消費税増のダブルで、6円程明日から値上げとなる。
税金を納めれる事は、特権であるなどと高尚めいた事は言わない。
実際、今日は、持っていたガソリン缶も合わせ80ℓ程入れてきました。

「ハイオク、満タンで、、」

これは、なかなか気分がいい
私にとって、とっても贅沢な感じが貰える(俺って、豊かだ~、ってね)
だって、お金の無かった時は、財布の中を見てから、考えて~

「すみません、2,000円だけお願いできますか。」  だったから
 バイクも満タンにしたのは、節約ではなく、リッチ気分を味わうためでもない
目的もなく、走り出す為、しいていえば、走る事自体が目的
姪たちが家内とケーキやらクッキーやラスクをつくっていたので

「ちょっと、行ってくる」

と、近くにあるんだけど、雪が完全になくなると
ここまでローカルな道は、走る事も無いので、逆に今しか走れない
実際、初めての道を気ままに、流す

この世的には、貢は出来ればあんまり収めたくないものだけど
神の国に置いての納税(そんなのあるならだけど、私的には似たような収めるモノがあると)は、
天に国籍を持つモノだけの特権
その納税方法は、献金というギラついた現ナマでは、もちろんない
全ての物の持ち主なる方が、そんなもの必要だろうか
もし、現金という形があるなら、それは、副産物的なもの
 ”いのち”とか 
”いきる”とか 
”いきた”ということばには”息”とえらく関係している

神が吹き込まれた”いき”によって
”いきた たましい”になった

生きている事は息をしていること
生きていく事は息をしつづけること
 普段は意識して息をする事もないけど
息って、吐くのと吸うのは
どっちが先で?
どっちが大事?

吸う事は、この世界を自分の中に取り込む事

吐く事は、一度自分のモノとしたものを返す事  
息を吐くという行為は、ひとつの自己表現でもあるし、
自分がこの世界にも影響を与える事でもある

目覚めた”霊”が吸い込む ”いき”はこの世のものではないから
その”霊”が吐き出す”いき”も、神のものである
 今日、私の前を電気自動車が走っていた。
殆んど音もなく、スルスルと加速する(意外と速い、ま、その速さは内燃機関と違うのだけど)
排気ガスも出さず、騒音や振動もほぼ無い
だけど、旧態依然としたキャブレーターを複雑にリンクさせて
少し、濃いめの生ガスを無駄に吐き出して、前に前に進んでいくのは
とっても楽しく、どうしてだろ 満足がある

2014年3月30日日曜日

季節の切り替え



今日はほぼ一日中、雨時折勢いよく風も吹いている
ダイニングから見える山の斜面の残雪が、
自分の居場所の引き際を知ったかの様にみるみる小さくなっていく

季節を定められた方は、実に偉大です。


魂的なクリスチャンの行動や経験が全て魂の働きという訳ではないと思います。
大体のクリスチャンは霊的な経験があると感じています。
それは、神が、その様に用いてくださるからです。

でも、クリスチャンの多くは
神の意志を、自分の意志で成し遂げようという誘惑に勝つ事が、ありません。
「霊の平安」は、魂にはあまりにも退屈だったり、平凡であったり、愚かにみえるからです。

魂はいつも好奇心に満ちています。
新しい解釈、新しい刺激、新しいやり方、新しい知識、次の話、次の集まり、次の新たな出会いなど
グルグル同じところを、回り続けて荒野を歩む民の様です。
彼らは、霊的な知識を蓄えますが、霊的な経験からは遠ざかります。
どうして、そう言えるのでしょうか
それは、以前の私がそうだったからでもなく
今の私も、そしてこの先の私もそんなモノだからです。

注意したり、努力したり、何かをしたりして成長できる働きは、
自分や、人々や、学問などが与えてくれるモノ


賜物は神が、名声は人が、自惚れは自分があたえてくれるモノ


本当の成長は、寝ている間に、主が備えてくれるもの
それは、一方的に頂くだけで、後になって自分がそれを知る程度かも知れません。


2014年3月29日土曜日

日本海

 実際混浴に行く男性なら、理解してもらえると思うけど
一緒に湯に浸かってしまえば、いやらしさや変な期待感は流せてしまう
そんな解放感も、温泉の魅力

 だけど、今日行って来た所は大浴場もガラスブロックでの仕切りだけで
男湯、女湯とも一人だけで入っているからいいけど、、
なんといいますか、チラリズム効果を感じる内湯

 その後、露天に行くと その解放感とおおらかさにはちょっとびっくり
だって電車の橋脚が目線より少し上にあって、異常に近い!
車窓から見下ろす景色には、殆んど丸見えの、世界が広がっている(かも?)
                                  右下は家内 ⤵
男性の脱衣からの風景、正面に電車の橋、
鉄っちゃん、鉄子には、たまらない ロケーション、春には桜も見上げられる。

男女を分けているのも、中途半端に仕切りがあるだけ、
他にも、利用者がいたなら
ちょっとだけでなく、困ってしまう(男性としては、、)。

軽めの硫黄臭、お湯質はいいし、昭和レトロな雰囲気も嫌いじゃない
露天に出ていく所は、千と千尋の世界
その先には従業員用の急な階段があって壁沿いに壊れかける様に温泉のパイプが、、

ふんだんにしかも沸さなくてもいい温度の原泉があるからか、シャワーのお湯も原泉そのまんま
脱衣はワイルドに、岩が露出していて迫力がある。
こんな天気の良い、土曜日に、ここを使ったのは多分私たちだけだったかも

この近くには、こんな鄙びた温泉が両手の指で収まらない程あるから
また、来てもいいと思う。


 昨日までは、土曜日は天気も良いし
気温も21℃まであがるようだから二輪で温泉でもと考えていたんだけど
家内も一緒に行ってくれるようだから、楽をして楽しめる様に、四輪で

別に、高い所にあるケーキじゃなくっても
低い棚に置いてあるクッキーでも十分美味しい そんな感じ
白馬の峠で外に出てみる。
寒くも冷たくもない、そこから見える北アルプスは雄大

途中温泉を入り、糸魚川を抜けて日本海まで出てみる。
姫川は水の透明度と美しさでは、いつも感心する。
土や砂がほとんど無いから、濁る事も少ない
 ヒスイが採れるので有名な海岸線は、篩にかけたように
均等な色とりどりの玉砂利が敷き詰められていて、砂浜はない
海岸線に打ち付ける波も、日本海のコバルトブルーではなく
南国の様何色にもなっていないけどマリンブルーだった。

糸魚川では紅梅が花を咲かせ始めていた。
やっぱりこちらは早いねー
遅めの昼食を頂いた後、 帰り道 ヒスイ加工販売所にも立ち寄った(ヒスイは河原で拾えるから)

振り返るように眺めた白馬峠からの北アルプスはちょっとシルエットになっていた。

2014年3月28日金曜日

想定外

 今日もだけど、昨日もブルーマウンテンという、言葉が相応しい感じです。
あまりにも、暖かくなってきたので、家内に声をかけました。

「さんぽ、しよう。」

近所の所では鶏も気持ちよさそうに歩いています。
 独身貴族は、好き勝手に出来る自由がある
自分の好きな時に、外出し、好きな所で食べる
自分の好きなスケジュールを 自分だけで決めても、いいし
その日その日を ある意味お気楽に過ごせるし
相手の為に、長々と興味のないショッピングに付き合う必要もない(いつもそうじゃないけどね)

好きな相手とも好きな時に会い 抱き合って そして別れる
カッコ悪い所も見せないように出来るし
うまくいかなくなったら、少しつづ距離を置く事も容易だ
そして、また新しい恋を探すという選択肢も 社会的には受け入れられやすい

それでも、私は結婚生活は、独身の時とは比べられないもの
「ふたりは、ひとりよりまさっている」事に 私は心からアーメンする

そして、霊と歩むクリスチャンライフはそんな感じ
 先日、想定外という話もブログでちょっと書いたんだけど
そもそもクリスチャンになるという事が、想定外の人生だけど
別に、そうでなくとも、リストラや、倒産、癌、交通事故、家屋全焼、ウツ、引きこもりなど
まあ、人生ってそんなもんだよね、って冷たく言うとそう

だけど、、何か今までの想定外と違うのは、いい流れの想定外で
自分の外で起きていると、いうことより、内側の想定外
霊と歩む生活という日々の想定外は自分では、

”こうしたい””

”この場合こっちを選ぶ”

”絶対そうでしょ”

”えっ、どうゆう事?だってあたりまえじゃん”

って、感じたり、思ったり、過ごしてきた事なのに、
それを自分が想定外を選ぶという想定外が発生している(ややこしい)
まあ、もちろんそれでも、選ぶのは自分なんだけど、その選びは自分を選ばないという形に近い
一人なら何を食べようが、断食しようが勝手だけど、もしパートナーと一緒にいて

「昼、何処で食べようか」

と、話をしている流れでの選択に似ている。
前から、言っているかも知れないが、何処で何を食べるかより、誰と食べるかが大事で
グルメ番組で出てくる様なステーキより、連れ合いと一緒に頂く一杯の味噌汁ってわけ
もちろん、今までも、そうやって来たつもりだったけど
なんだかんだ言って、自分のやりたい事を、賢いつもりの知恵で誘導して来ていた。
自分の魂より、自分の霊の方が神の定めた関係性では上で、その関係は夫と妻の様なもの
旦那は誰よりもへりくだっているから、妻が出ればそれが通るだろう
そんな事も聖書の中の旦那と妻の関係性でみると、見えてくる感じもする。

旅の途中でマリヤが

「えー、ここしかない、アンタ何考えているの、、、 
こんな所に泊まるのは嫌よ、ア、リ、エ、ナ、イ、宿主ともう一度交渉してきてよ。
お客さんだって、臨月だからと泣き付かれれば、変わってくれる人もいるんじゃないの?
そもそも、アンタ人が良すぎるわよ、信じられそうもない話でも簡単に鵜呑みにしちゃうんだから(だから、結婚してくれたんだけど)
もっと、ずうずうしく、開き直ってみたり、泣いてみたり、アメとムチ作戦やってみ
キャラに合わないって、原因はちゃんと計画して予約しておかなかったアンタの責任でしょ。
アイタタッ、、、ほらアンタが怒らせるから、お腹痛くなってきたじゃない。
こっちは、アンタが田舎の出身だというだけで迷惑しているんだから
こんな調子だと、わたし実家に帰らせていただきますからね。」

などと、ヨセフに高圧的な態度だったらどうだっただろうか、もちろん妻の提案や忠告に耳を貸さない旦那は
全てのモノの主である方の権威をないがしろにしているとも言える。
ただ、エバやサラ、イザベル、アタルヤなどを見ていると
やっぱ夫を立ててこそ、賢き妻と思える

そしてその形の方が、美しいし、楽しいし、何と言っても楽

2014年3月27日木曜日

父はガーデナー

 先日から、長女の庭作りに着手している。
木工や、家作りも楽しいけど、庭造りが一番楽しいのだ(やり始めるまではそうではない、畑と似てる)

 去年のリフォームの時にイチイの木を移動したり、必要ないモノを撤去した庭は
荒れ地のように、ガタガタで穴だらけ、、
まず、枯れ木や枯草を移動し、土に埋まっていた石を集め
堺を決めて並べていく。
 個人的には、あんまりキッチリしたのは好きじゃないし、
管理も大変だから、結構フィーリングでラインを決めていく



問題でも無いけど、私が土いじりをしていると、ヒナも必ず出てきて
同じ様な事を始める、、、

腐葉土の土は、硬くなりにくくもっと固めたいんだけど
まあ、それも自然だし、本当は財産でもある。
まるで土俵の様に並べたら、地面を平らにならしていく


冬の間死んでいた様な庭にも、あちこちから花を覗かせてくれている。

父もエデンを創るのは楽しかったことだろう、と素直に共感できる。


2014年3月26日水曜日

メガネ越しに見えてくるもの

小さいころから、おハギが好きじゃなかったけど
家内が嫁いで来てから、彼女がおハギ好きで

「オイシイ、オイシイ」

と食べるので、私も少しずつおハギ好きになってきた。
母の味を再現してくれる、妻のおハギが一番美味しいと、感じる。


先日、思い切って眼鏡を買った
小さい時から目は良くて、不自由した事はなかったが
加齢により 遠くがぼやけて、見ずらい様になってきていた

年始にゲレンデでしこたま眼を打っての検査で
なるほど、レンズを透すと、かようにはっきりと遠方が見渡せるのかと
バイクや車の運転時も市街地や夕暮れなどに効果があると感じたからである

家内も目は私より良いようだが
そのぶん老眼は、進んでいるようだったので
どうせ必要なものなら メガネは今買ってもいいのではと
車で帰宅途中の道沿いにある、眼鏡屋に寄った。

私は、モノを選ぶときあまり迷わないが
家内は、ファミレスのお決まりのメニューでも

「なんにしようかなー」

とか、選ぶのには時間がかかる。
冒険はしない堅実なタイプだし、倹約的でもあるから
そうした彼女を見ながら、ホントは殆んどアレでしょ的メニューが決まるまで
私は、待っているだけの時間となる。

眼鏡のフレームを選ぶという事になると、それよりは、やはり迷う事になる
私は適当に面白そうなフレームを2つ3つ持って行って

「これどう?」

などと持って行くが、ちょっと冒険する私の選んだモノをチョイスする事はまずない事もわかっている
それで私は店内の椅子に座って、持参してきた小説を見る。
少し離れた所にいる家内が

「これは、どうかな?」

と訪ねているが、ちょっとだけ首をふり

「それで、いいんじゃないの(どうせ、フレームは違ってもレンズは同じだし、、)」

.....的な、やり取りが悪かったのか、、
無事決まって、乗り込んだ車中、別に内気循環にしていた訳でも
外気導入で前にトラックがいた訳でもないのに車内の空気がすこぶる悪い
家内が

「何で、メガネ一緒にみてくれないの~」

「あなたには、興味はあるけど、メガネには興味がないんだ」

「それでも、付き合ってくれてもいいじゃない」

「その様な演技は出来るけど、素直に生きたい」

などと、問答みたいな事を繰り返していたんだけど
今になって考えたら、私が悪い
メガネ自体は興味がなくとも、メガネ姿の家内に興味がない訳ではない
他人のメガネだけ、あっても気にしないが
家内のメガネなら、無関心なワケではない。

それは、クリスチャンの活動にもちょっとだけ似ている。
2年前の末にクリスチャンとしての価値のある(神にとって)働きは”霊”しかないと、気づかされてから

「これは、肉そのものの動きだな」 とか

「全く魂としか言いようがない」

などと、心の中で揶揄してきたが、魂が体に命じているパターン自体はさしたる興味もないけど
家内の顔の上に乗っているメガネには興味がないわけではないように
霊の命にのっとって動いている魂の働きは、面白いと感じる
ただそれは、今の所 非常に稀だ


2014年3月25日火曜日

タイミング

食べかけ(食べ残し?)のブレッドですみませんが
美味しいモノで、つい写真を撮るタイミングを失ってしまうのである。
(もちろん、この後、おいしく完食しました)

まだ、バイブルスタディを毎週やっていた頃の事

「イエスってどんな人だったと、思いますか」

と、訪ねて、帰ってきた答え

「嫌な奴(吐き捨てる様に)」

それを聞いて私の用意したプログラムに対しては想定外だったんだけど
私の魂は深い所から、叫んだ

「アーメン」


福音書のイエスは(それ以外でもだが、、)ことごとくと、言ってイイ程
期待を裏切り続けるタイプに、見える
迷子になった時も、子供ならいろいろあったとしても普通は「ごめんなさい」でしょ。
そもそも、彼は謝った事があるのか?もし無いなら人間としておかしいでしょ!
生まれた時からして、いや、妊娠のタイミングから空気を読まない

大勢の人々が彼についてきたシーンでイエスは何と言ったか
ヨハネが(バプの)私こそ洗礼して欲しいと、行った時
イエスがそのヨハネより多くの洗礼をするほどになった時
彼はどう行動した?出来たら免除にしたいピラトの前ではどうだった
「そんな事があってはなりません」というペテロに対し「ありがとう」とも言わない
わざわざラザロや、管理者の娘が死ぬのを待っていたフシもある
確かにお願いすれば「治してあげよう」とか波を静めてくれるけど
じゃあ、寝ているのを起こさなければ、どうなった事か

イエスは、父の想い通りの行動しかしないし
ある所では「自分からは何事もすることができない」と成人男性としては不具者のようである
反抗期は無かったとしても、「ボクがボクである為に~」とか
「自分らしさ」を求めて”自分探し”の旅に出る事もなかったのか

彼は今日も私の内側で、期待を裏切り続けている。
きっと、もう一度来る時も期待通りではないだろう
でも、考えてみれば当たり前なのだ、彼は私の思い通りになど出来ないし、私の願うように語ってくれない
もっとも私もそんな彼は見たくもないし、幻滅する

ただ、私の霊とは、最近とみに親密である。
そしていつも想定を超えてくるそんな所も魅力です。

2014年3月22日土曜日

「聖夜」

今年の冬は、長女の出産から始まり、その後1月は、家に居たから
本も、殆んど読まなかったけど、先月末くらいから、
リサイクルショップで買ったり市立図書館から借りてきて読み始めている。
面白いモノもあれば、私にはつまらなかった本もある
斜め読みと言ってイイだろうが、それなりの冊数にはなる
割と色んなジャンルのモノを好き嫌いせずに読んでみるけど
小説というものは、ちょっと面白い娯楽だと思う。

挿し絵などはあったりするが、私的には挿し絵は基本見ない。
見ないようにしている訳ではないけど、集中している時は見えないのだ
「あとがき」などで、作者が「こんな素敵な絵をそえてくださった○○先生、、」などと書いてあると
めくり返して、

「なるほど、あのシーンをこの人はこう書いたんだ」

って、思い返す。
色や光、音や風景、その時の気持ちなど、言葉でないモノを、文字にして
それを読む時には逆に再生する様に、文字を目で言葉に変換して、
頭の中で、主人公やその家族、友達、地域や学校などを構築していく、
最初の何ページかは、そのモデル製作が上手く作れるかが最後まで楽しめるかの鍵になる。
先ほど読み終えたのだけど

http://www.amazon.co.jp/%E8%81%96%E5%A4%9C-School-Music-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E5%A4%9A%E4%BD%B3%E5%AD%90/dp/4163297901/ref=sr_1_5?s=books&ie=UTF8&qid=1395492494&sr=1-5&keywords=%E8%81%96%E5%A4%9C

佐藤多佳子さんの「聖夜」は久々に、読み続けて行くにつれ残りのページが気になり
最後のページになるのが惜しい気持ちになりました。
百田さんも確かに面白いが、彼女の作品は臭味が、なくって読んでいてホッコリする。

全体を通して音楽小説なのだけど、高校生ならではの、気持ちの揺れを全体を通して流れている音楽と共に味あわせてくれる。
あらすじは、アマゾンのレビューでみてもらえば十分だろうから割愛するけど、もっとも心に残ったことばは

「なぜ怒らないのかとよく言われた。あなたは怒っているはずなのに、私を怒らない。
神様が私を許すはずだから、自分も許さなければいけないと思っている。
人間のくせに、神様を気取っている」

それにしても、最後が幸せな気分で終われるものが、私は読んでいて好きだ。

2014年3月20日木曜日

新しい季節の息



まだ、高原では上を歩けるほど、氷が厚く湖面を覆っている。
昨日今日だけ見れば、ずっとこのままで冬が終わらないかの様だけど
見えない所では、いのちの躍動が深い所で始まっている。



何故、キリストを信じる人は”霊”を知らなければならないのでしょう

アダムがもし先に”いのちの木の実”を食べていたなら
キリストのいのちとも言える”神の霊”が、
アダムの魂の奥にあったアダムの霊の中に入いり、アダムに永遠を与えただろう

しかし、アダムはもう一つの実を食べこうして罪が入り
アダムの霊は死んだ(神に対してアクセス出来なくなった)
エバから生まれた者は、生まれながらにして霊が死んだ状態の罪人として生まれてくる。
以前の私には、罪を犯す以外の選択肢はなく、右を行こうが左を行こうが神を喜ばせる事は、なかった

旧約以前も聖霊は働かれていて、ある人と共に歩んだり、ある人の上に留まったり
激しく下ったりして、不思議な技を見せてくれていたが、イエスが来られるまでは、彼を信じるまでは
聖霊が人の内側に入り込み留まる事はなかった
それは聖霊の地上での唯一の住まいは、神が与えて下さる”霊”の内しかないからで
生ける聖霊は、死者の中で見つかる事はありません。
神の聖霊は、ただ、人の内側にある生きている霊の内にベッドを据え、
生きている霊の中にオフィスを置き活動を始めます。

神の意志を知りたいなら、自分の中にある霊に聞くしかなく
自分の身を死に引き渡そうとも、全財産を捧げようとも
どれほどの聖書の知識であっても自分の理解、知恵や理解や感情や思い、
強い意志であっても、入れるのはせいぜい聖所まで、
私たちは肉に従って歩まない時だけ、霊に従って歩む事が出来ます。
ただし、肉に従わないという選らびを、もし自分の思いや感情もふくめて意思決定する時には
肉に従わないという選択は不可能になる、つくづく魂はそれだけでは不自由だ

”霊は霊によって”、霊の知覚だけがそれを可能にならしめます。
それは、実に不思議な事です。



長女の庭に、咲き始めた福寿草
長野では、新しい季節の訪れを知らせる花です。


2014年3月19日水曜日

黒姫高原スキー場

 今朝電話で、

「黒姫スキー場の無料券あるけど、滑らない?」

という事で、ゲレンデに9時に到着
少しだけど降った雪もあり、思っていたより状態はいい
今朝彼女は、既に5回リフトに乗ったらしい
さすが、朝早く起きて8時にはリフトが動き出すのを待っているだけの事はあると、、、
 彼女も先日からテレマークを初めていて、なかなか大したものであります。
フラミンゴみたいなポーズで曲がっていく姿は、この時期だけ見れるもの(懐かしいフフ)

朝の間は霧がありましたが、どんどん晴れてきました。

今回一眼レフを持って滑ってみましたが、
ファインダーを覗きながら滑っていると、バランスを崩して転びそうになる。
さすがフルサイズは大きくて重いー


途中からまっちゃんの板を貸してもらって、後ろ向きで滑りながら
右左と旋回する練習をしていたけど、、何度も転んだー

向かい合った鏡の様な逆の動作で出来るってわかっても
頭で理解した事を、体で実際に使えるようにするって なかなか難しい
 12時になったので、まっちゃん宅で、お昼を頂く事に
まっちゃんの料理は、手際が良くて(つまり早い)そして美味しい
 こんな感じでーす。このあとシナノゴールドの剥いたのと、作ったハム(これも美味しい、早速家でも挑戦したい)サンプルも頂いてきました。


食事の後、相も変わらない、いつもの話をして3時過ぎに別れた

それにしても、彼の低所得での豊かなライフスタイルは、素晴らしい
精神のゆとりとか豊かさが、生活を豊かにしている感じで
テレビを見る時間もないほど、やりたい事が毎日あるらしい(TVも無いけど)

やるなー御馳走様
 薪ストーブの前でくつろぐコテツ、幸せモノだ、

2014年3月18日火曜日

とある、話

ある年期の入ったクリスチャンのがいる。
どちらかといえば物静かで思慮深く見え
実際に、聖書を良く読み、祈りを欠かさないだろうと想像はするが、
彼自身からはそんなそぶりは一切見えない。

一緒にいて、ホッと出来 心地よく感じられ、
何か心配事でも出来た時には話を聞いてもらったり、相談してみたくなる

実際 そんな時なども適切に、適度に聖書のことばを引用し、
聞いている周りの人にも、それなりの納得を与えてくれる
多くの人も彼の悪口を聞いた事はないし、彼を悪く言う人もまずいない

「敬虔なクリスチャンとは、彼の様な人」

そんなバカバカしい程の評価も、反論は出来ないし、しようとも思わない
そして、彼とある程度いる人は、彼を通して 神の霊に触れるのである。



また別の方は 主を信じてそれほど経ていないクリスチャンで、
ちょっと耳障りな甲高い声の方で、大体がおしゃべりで、
この人思いついた事を全て話さないではいられないのでは?と思うほど
その時の気分次第で、その殆んどは全く考えないで思いついた事を話している様に見える
たまに一緒にいても、うるさいほどで、これが、いつもだと大変だろうなと思う
話の内容自体は、取るに足る程とは感じられず、その話には納得できるモノではない時もある

「そんな事書いてある?もう少し、聖書でも読んだ方がいいんじゃないの」

と突っ込みを入れたくもなるのだけど、、
だけど、その人といる時に、その人を通して、神の霊に触れるのである。


その人の性格や熱心さキャリアや経験した事、聖書の知識や、
その人自身の性癖や知恵や感情や話すスキルや生活習慣などではなく、
ただ”神の霊”こそが、変わらない価値であり、
いかなる、困難や想像を超えた状況にあっても、一切影響されないもの


神の与えてくれた”霊”を、魂の監獄から脱獄させる如く
まるでクーデターが起きたかの様に魂を占拠する神に誉有れ
(実際は、神は強制的にはなさらず、無血開城こちらがするだけなのだけど私の場合)
この世にあっては、愚かで 
サタンにとっては、裸の銃を持ち歩く様な危険因子
神の与えてくれた霊を持ち運び、触れた者を通して伝染させる保菌者の様な僕の主人にホサナ

”復活の霊”を与えてくださる天の父は、偉大で不思議 ハレルヤである。
マラナサ イエスよ、来りませ


2014年3月17日月曜日

おヒサ

 久々に 朝 かすみがかかって見えた
下に降りて 3か月ぶりにF6Cを奥から移動させた。
バッテリーがあがっているだろうと思いながらキーをONにしてセルボタンを押してみた。
勢いよくセルモーターが回り始めた。

これならジャンプスタートしなくとも大丈夫かもしれないと
燃料タンクのコックをリザーブにしてチョークレバーを引いてもう一度セルを回してみる。
数秒後のクランキングの後、

「ボ、ボッ、ボボ、ボボッ、グゥオン、」」

と今年初めての咆哮をあげた。
いつ聞いてもフラット6の音はいい
コブラのマフラーのお蔭でやたらにシルキーではない所も味を濃くしてくれる。
チョークを戻すと、

「グルッ、、グル、、グルッ、、グル」

と、低く股の下でアイドリングを続けている。
今日は長野市以南では15度の予報、長野全域0%の晴天率
いそいそと着替えたら、バイクの上に積もったホコリも
冬の期間、私に積もったモノと一緒に吹き払って朝まだ少し冷えている風の中に、、
少し降りた所の道路わきの温度計は4℃
路面にはまだ一部氷があるからアクセルとブレーキ、体重移動には最高のデリケートで通過する。
長野市街地を抜けて、千曲川沿いの堤防道路を走る頃には気温も随分あがってきたようで、ヒータージャケットのダイヤルを7から4にかえる。
それにしても緩やかなカーブでフェンスのない河川沿いの道を走るのは気持ちがいい
車間距離を30m程取って50km/hで走り続ける。
エンジンの回転数は1300RPM程だけどヒュルヒュルと安定したまま ゆっくり回っている。
河川敷脇の千曲市の万葉温泉の足湯に、程よい硫黄の匂いが心地よい
20分程、足を浸けていると、体中がポカポカとしてくる。
ジャケットのファスナーを少し開け気味で、また堤防道路を南へ
 ネットで見た上田市街地のお店が見つからなかったので
思い切ってインド料理店でお昼を頂く事にした。
価格も味も納得で嬉しいランチに

 ドリンクは、150円プラスして
「マンゴラッシー」にしてみました、これも いいね~
 それ程辛いと思わなかったけど食べ終わる頃には、顔から汗が出てきた。
特に美味しいと思ったのは多分鶏肉だろうけど、それのスパイス照り焼き風
小さい頃、祖父が寒雀を取ってきて、囲炉裏で竹の串でじっくり焼いた味に似ている(家内はバーベキューソースから甘味を抜いた感じだと)。

帰り道は旧道を走る
道沿いにまた違う足湯があるハズで、そこも行こうと考えていたけど、見つからずスルーしてしまったようで
そのまま稲荷山まで来て”まんが記念館”によると定休日でも、残念じゃない
バイクに乗る事自体が今日の目的だから、だってこんなにいい天気だから、、

更埴から長野市にかかる橋の上でアクセルを全開に
タコメーターの針は4000.5000.6000と実に息の長い加速が続く
そしてどんどんエクゾーストノートは高音になっていき
後続車はバックミラーの中で点になっていく
長野市に入り一つ二つお店によって今度は山ルートで久々に右に左に切り返しを楽しみながら家に戻りました。

あー、ちょっと久々のバイク 楽しかった~