2015年6月27日土曜日

ピタゴラスイッチの様な神の意思の伝達法

長女のリフォームで結構立て込んでますが、期日もあるので車検を受けに長野陸運支局へ
待合室で一緒になったオッチャンが(私もおっちゃんだけど)

「ポルシェの930ターボや一千万円程するね~」

上手く合格するといいね~
私の方は無事、1発でOK、ハンコを貰って先に車検場を後に
帰り道は、わざわざちょっと遠回りをして家に向かう
りんご畑の九十九折を登って
入り組んだ集落の玄関先をかすめ
能舞台のあるお宮さんの前を通り
緑の濃くなった雑木の森を抜ける

オートバイに乗ること自体が、単純に気持ちが良くて楽しい。
その排気量やドライブシステムの影響もあってコーナー手前のシフトダウンで軽くリヤタイヤが鳴る
そこから一番深い場所でのターン
思い通りのラインからタイヤ1本分ずれる
立ち上がりで、アクセルを開け過ぎなのかマシンが少し左右に揺れる
そんな機械との会話が噛み合わない部分を時間をかけて何度も修正していく

直線路でゆっくりと回り続けるエンジン、柔らかな金属同士が噛み合うフィールが心地よい
私がバイクを操っているのか、バイクが次に動きたい流れを私がアシストしているだけなのか
とにかく私の意志で、私の手足を動かし、機械でしかないバイクを自分の手足の延長の様に操作する。
ちゃんとシンクロ出来ている時の何も考えない、ただ味わうだけの至福の様なバカの様な時間

私の魂→私の体→物(バイク)

という一連の流れは、一段階違えど

私の霊→私の魂→私の体

という働きとどこか似ている。
丁度、出エジプト記で

主→モーゼ→アロンと神の意思がイスラエルの民に流れて、世に影響を与えた様に

天の父→御子イエス→聖霊と働かれその後

私の霊→私の魂→私の体と神のことばが流れて、そしてこの世界に影響を与える。

2015年6月25日木曜日

蕎麦

 霧や雨が似合う花にアジサイがあるけど
この時期に咲くホタルブクロや蕎麦の花も良く似合う

家から見えるソバ畑の景色はこの時期の戸隠を彩る風物詩の様です。
あまりいい香りのしない小さく地味な花ですが、近づいて良く見ると
稀に、赤い蕎麦の花が混じっています。
チベットにはルビー色の花の蕎麦があることは有名で一時戸隠でも育てられてましたが
高地では紫外線が強いから色素が多い方が残りやすかったのか
結構赤い花を探す事は楽しい
 ソバ畑は残念ながら今年は休耕?
それでもこの景色は悪くないです。
 どうぞ主がその全能の力を働かせてくださり
私たちの語ることばが塩気のあるものとさせてくださいますように

2015年6月22日月曜日

アプローチ

 梅雨時期の朝は清々しの世界で満ちている。
Lani!を預かっているからこそ、(半強制的に)味あわせて頂く時間
朝露に濡れて、泥だらけになるけど
Lani!もどんどん森が好きになっている感じを共感してもらってる。
家を建てる時はお金が無かったけど
条件は一つだけ「森が付いている事」
ありがとうLani!
 多くのビリーバーより、そうでない人々といる方が楽と言うか楽しいと言うか、、
何だか無理してない様な自然さを感じる
頭で考えるとそうした状況は「お前がクリスチャンとしてちゃんとして無いからだ」とも
なるのだけれども、散々やってきて、その声が偽りだと心の奥でわかってきている。

今はいないけど、それなりの動物を飼ってきて、彼らと過ごす時間も
遠いエデンでの時をリフレインさせてくれるのかとても心地よい

彼らの方が自分の造り主をちゃんと知っている、そんな感じもする。
四足のスタイルは常に主を礼拝している様なもので彼らからも主の素晴らしさは感じ取れる。
第一彼らは偽りを言わない

「集まる事はクリスチャンの義務(または喜び)」 
霊的でもないのに「霊の交わり」

それなら普通にオーナーズミーティングだとかサークルだとか居酒屋の集まりの方が自然でいい
クリスチャンのその集まりがどんなに「タイムリー」で、興味深い「トピック」で満ちていても
御子そして御父との交わりがないなら、嘘を吹聴しているようなもの
聖霊を頂いていても、自分の霊が発動してないなら健やかでないなら
神の三者面談に参加させて頂く事は出来ない
 「箴言」3章5節、6節に次のように書かれています。

  心を尽くして主に拠り頼め  自分の悟りにたよるな
  あなたの行く所どこにおいても 主を認めよ
  そうすれば主はあなたの道を まっすぐにされる

一流のアスリートには、トレーナーがついている
自分だけで自分を鼓舞し、鍛えあげる事は難しいし、無理をして体を壊す事もある
時には「こんな訓練、意味があるのか」と思われるような時もあるだろうが
彼が一流のトレーナーなら信じてそれに従って、やってみる
「主」ほど一流のお方はいないのだから、私の思いの内の雑草の様なモノ
壊れて朽ちていく城壁の部分を少しずつ矯正してもらう時間

「愚かさは、少年の心に結びついている。
訓練の杖が、これを彼から引き離す。」

箴言22章15節


道を歩いていても、ダンスでも男がリードして女性が付いていく
そんな形が美しいと感じる。
キリストは常に「主」であり、私は「従」
彼は「夫」であり、私は「妻」(あっち系の意味ではなく立場的にですが、、)

証であってもそれは「イエスキリストの証」であって私の証ではないはずで
それらは、聖書を読んだり、知恵と知識によって積み上げられたモノではなく
上から降りてきた「ことば」なのです。
「我が意を得たり」はキリスト者にはない
自分の思いを自分の分別に寄り掛かる事をしないで、ただ主に期待し主を待つ
私の知恵を愚かにも私の眼は賢いと思いがちになる
彼こそが、彼だけが、私の道を真っ直ぐにして下さる。

つくづくキリストとの付き合いは、向こうのリードで始まる

「啓示」

なのです。

「主よ、今日も私はあなたを褒め称えたい。あなたのアプローチ今日も待っています。」


2015年6月18日木曜日

求む「働き手」  byヘブンリーファーザーズ農場

 マタイによる福音書9:35-38

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、
ありとあらゆる病気や患いをいやされた。

また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、
打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

そこで、弟子たちに言われた。
「収穫は多いが、働き手が少ない。
 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、
 収穫の主に願いなさい。」

  

ルカの10章にもほとんど同じ様なことばがありますが、
特に後半に書いてある事もまた霊的な意味での働き手の事です。
クリスチャンなら皆漏れなく頂いている聖霊、そして復活の霊、それが健やかで開かれている人の事です。

実に皮肉な事に、ここの箇所を前で立って語るほぼ全ての教役者自身が間違いを犯している事は現実に見れます。
それはかつての私でもあります。
そして主の「働き手」は、この世には本当に少ないという事です。

そもそも働き手は、父が送ってくださるお方そのもので、自分(私)ではありません。
どちらかと言えばその方を頂いたかも知れませんが、使わせてもらっている様なもの。
それを収める鞘(ケース)としてこの体や手を使っても、実際に働くのは霊です。


私はクリスチャンになってそれなりに年数は重ねましたが、
ホンの2年前まで折角与えて頂いたその「働き手」を塵から取られたこの肉の体、自分の内側、地に隠していた事に気づかせてもらいました。

マタイ25章で

「ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。
『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」


ここのシーンだけ読むとクリスチャンになっても、頑張らないと救いを失う様に感じてしまうかも知れませんが
神の救いはおこないに影響されるような軟なものではありません。イエスは救いの主(ぬし)であって彼を信じた時点で救いは決定しており覆りません。

タラントに「賜物」とか「才能」と言う意味は元々はありません。
ですからこの体をいくら奉仕に捧げても、知的能力をもって教会と言う人の集まりの経理や財政を支えてもタラントを使っているワケではありません。
塵をいくら磨いても所詮は塵です。
ソロモン時代は純銀でさえも大した価値と思われない程の繁栄ぶりだったそうですが
天の御国は大通りが透き通ったガラスのような純金でできています。
どんなに小さくても金は金です。使うために頂いているのですから、それをちゃんと使いたいものです。


「収穫は多いが、働き手が少ない。」

天の父はありてある方ですから父に不足はありませんが、この世で主の働きが出来るものは少ない。

マタイの9章でイエスは、
「働き手が少ないだから、君たち頑張りなさいよ」とは言ってません。
鼻から息をする者を頼ってはなりません。自分の頑張りに頼っても無駄です。
私たちがちゃんと主に向かい主に願うなら天の父は、惜しむことなく与えて下さいます。
なぜならその「収穫」とは、私の収穫ではなく、また教会と言う名の集まりの収穫ではなく天の父の収穫だからです。

「収穫は多いが、働き人が少ない。
だからあなたたちは、収穫の主(ぬし)に願って、
彼の収穫のために働き人たちを、だしてもらうがよい」岩波訳


自分と言う硬い殻が割れて父が与えてくれていた霊が出てくる。
それは泥の中から咲いた蓮の花の様にハッとする程美しいと感じています。


興味深いのはイエスは弟子たちに

「今、私が父に送ってもらう様に取り計らったから」

とは言わず、あえて弟子たちにそれをさせようとする所です。
また「彼の収穫」を全農の、いや、全能の父自身がやるのではなく
あえてそうでない形でやる事に父は喜びを見出しています。

ヨハネ4章

「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。
さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。
それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。こういうわけで、
『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。
わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。
ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」(35~38節)


それはかつては、エデンでアダムにさせようとなさった事でもあります。
もし魂の殻が割れて霊が開かれてないなら父に求めなさい、そうすれば、それが与えられます。
収穫の主は私たちという畑に隠されてある宝を、その時に出す事がお出来になります、なぜならそれは既に私たちの内に埋められてあるからです。
しかし、主は強制的にそれをなさろうとはしない、だから父に求める事が必要です。
知性も努力も時間も必要ありません、それは今日であり、今です、目の前の畑が色づき、刈り入れるばかりになっているからです。


主の前に静まること、主に願う事、自分で必死に頑張るのではなくそのお方に働いて頂きましょう。
それはまるで剣を鋤に、槍を鎌に持ちかえる様な経験です。
プライドを持ち他の人に向ける剣ではなく、他の人をも生かす収穫を味わう生き方
共に刈取り主の倉一杯に麦が積み込まれた後、農夫である父からのことばがあるだろう

「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、
私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』


ヤコブの家よ、
われらもヤハウェの光のうちを歩もうではないか

イザヤ2章5節

写真はお弁当で作ってもらったおにぎりを家内と一緒に食べている時に家内が撮ったモノ
働いた後の、おにぎりは美味しいね~

2015年6月16日火曜日

近況です

 所要で出かける予定になり家内にお土産を買って来てもらい、木曽のほうば巻も買ってもらいこれはすぐ硬くなるのでお土産ではなく家で頂いた。
朴の葉の香りがいいですね。
お土産を持って高速バスで目的地に、安いのを選ぶとこうなんだな~狭いしと思いながら途中
困ってるひと (ポプラ文庫)を読んでいったからか、「自分の場所がちゃんとあるって素晴らしいな~」とか「たかが7時間で自由の身(大げさだが、、)」と随分前向きになれました。
帰り道友人の所に寄って電話で聞いていた長屋のリフォームの話を聞き、そのまま遠慮なしで、中華を頂きお泊りに、、
その間家では孫たちがラニちゃんに相手をしてもらっていた様子を電話で聞いてフムフムそっちも楽しそう、、、


 朝出発も早いと言うのに、お弁当とコーヒーの御駄賃まで頂き(すんごい久々にもらった~気がする)結局お弁当は帰宅してから家内と一緒に美味しく頂きました。
御馳走様です。
持って行ったお土産以上に、お土産を頂きベコニアもリヤシートに積んで無事家内に届ける事もできました。
本当に感謝です。


2015年6月14日日曜日

夕があり朝が、、

 昨日は夕暮れに帰宅
ラニが迎えに来てくれ、散歩に誘われ蕎麦畑の脇のあぜ道を歩く

 外に出たがるくせに、結構帰り道は「待ってました」と言うように急ぎ足で楽しそう
誰でも自分の家に帰るのは、基本嬉しいハズ

今年もマイマイガが多いけど去年程でもないかな
葉っぱを随分食べられても蔓バラが花を咲かせている。


 昨夜は息子の部屋で寝ていたらしいが陽が登り始めた頃、ベッドルームに入ってきて散歩に誘われたのでガウンを羽織り外へ出る。
冷え込んだのでちょっとした雲海の様に見える。
イチゴも実がなってきたので朝食時にヨーグルトと一緒に食べたいので露で手を濡らしながら摘んできた。
 大型犬との生活は、ちょっと大変さもあるけど楽しいもの
今は、仮の主人であっても、ちゃんと、「来い」といえば来るし
止まれと言えば止まる 性格は温厚を犬の形にしたようで、顔も優しい

外で遊ぶのが好きだけど、ただ外に連れ出して、私が勝手に好きな事を始めると
私の方を見てじっと立ち止まっている。
構ってもらうとか、遊んでもらうのが好きなんだな

「一緒」ならちょっとした冒険も、多少つらい事があってもそれは後で振り返ると
良き思い出、ラニのお蔭で味わえる事は、朝夕の清々しい空気だけでもない

主の計らいで、彼女を3週間預かる事になったのだから
彼女を通して主から頂ける事もすくなくない。

2015年6月10日水曜日

「dog'slife 」







 小一時間ラニに先導される様に歩く
時折振り返って確認してまた進んでいく
結局トイレは朝食の後にしたいようで
何事もなく戻って来た
足元は朝露に濡れ、ラニは時折そこにさも気持ちよさそうにごろんと横になる(当然濡れる)
今こうしてパソコンに向かっていると
濡れた犬特有の香りが鼻の奥を満たして来る
私にお構いなしにラニはいびきをかき始めた。
ちょっと羨ましい
「dog'slife 」
今朝の散歩で獲られたのはワイルドストロベリーだけでも無いな~


2015年6月9日火曜日

3週間

私も息子も家事も少しは上達しつつある水無月
長野も梅雨入りしたとのこと

白馬のお二人がラニを連れてやって来て下さいました。
戸隠での教会と言う名の集まりを出てから10年以上が経ち
いつか、神様はここでも交わりを始めて下さると思って来ましたが
やっと、そんな時がきたんだね~って感じです。
彼らはこの後、アメリカに飛び、レンタカーでまずモンタナまで3000kmの移動
そのあとテキサスにも降りるらしいので10000㌔近くを走破する予定

でもあのいつまで走っても景色の変わらない様な、大陸を2人で走り続けるって
なんか、羨ましい

ラニちゃんとの3週間の生活も楽しみたいと思っていますし
彼らが帰って来る頃には家内の右手もほぼ治っていると思うととても楽しみです。

2015年6月5日金曜日

白馬での2泊3日

 去年仕事をさせて頂いた、Backcountry Lodge Hakuba
お隣さんとの境界際に目隠しを希望されて、ハワイから知人も来るということで
バケーションがてら、家内と白馬です。
      戸隠も涼しいと思っていたけど白馬はちょっと寒い、、
昼働くには丁度で、夜は温泉に入って暖炉の日が心地よい         


 夕食は赤ワインで、この後オレンジをたしてサンガリア(確か?)で飲みやすく頂きました。
 ハワイからは8名で総勢12名の食事は、ちょっとしたキャンプでしたが楽しく過ごさせて頂きました。
 白馬のお二人は、私にとって珍しい普通のクリスチャンで、一緒にいて
心地よく、楽しく、いろいろ教えてもらえます。

神様、今日もありがとう