彼は彼女と同じ旧松任市(現白山市)の生まれ。
私の家内の母も松任市に住んでいて私も馴染み深い所でもあります。
だいたい名を残した俳人たちは旅をしているもので日本各地の俳句好きを訪ねている。
千代女も大阪や伊勢、名古屋に歩いて旅をしている。
絶世の美女だったとも、また、そうでなかったとも言われるが、残っているの肖像は確か51才と71歳の時のものだけで、だからこそイイわけです。
ブログもメールも無い時代、手紙さえ相当な金額がかかった時代(龍馬が姉に宛てた沢山の手紙は1通50両とも推定、、)
そこで初対面の人と「俳句のやり取り」をする。
バイカーはバイクにどの様に乗っている事が優先され、社長さんであるとかプー太郎であるとかは関係ない。
犬好きが互いの犬の話題で盛り上がる様に、彼女達も「俳句」が挨拶代わり。
「俳句」があるから、知り合いになれるということ。
そんな歴史的逸話として、加賀のお殿様と千代女にまつわる、次のような逸話があります。
ある日のこと、加賀のお殿様((10代藩主前田重教?)が、女流俳人として名高い千代女の噂を耳にして、金沢城に召し出させたときのこと、
お殿様のお出ましがあり、御殿の大広間で平伏していた千代女が、
「お面(も)てを上げてもよい」
とのことで、お面てを上げたとき、殿が読んだ詩が
「加賀の千代 何にたとえよう 鬼瓦(おにがわら)」
千代女はすかさず
「鬼瓦 天守閣をも 下に見る」
と返したそうです(当時は結構な高齢だったろう千代女、71才のときの自画像は、しとやかな品のある尼の姿ですが)。
また、千代女の俳人としての才能をためそうと、
「一句のなかに四角と三角と丸を詠(よ)み込んで見よ」
題をお出しになったところ、千代女は一呼吸おいて
「蚊帳のなか(□) ひと角はずして(△) 月をみる(○)」
と詠み上げ、お殿様はその受け答えに感嘆、俳句だから受け入れる事が出来るゆとり(まあ、遊びなんですが)。
当人の身分や何を成したとかは、関係なく楽しむ事、日頃の肩に背負っているものを降ろして、今目の前にいる方と向かい合い語らう。
彼女の詠んだもので最も有名なのは
「朝顔やつるべとられてもらひ水」
彼女は月も多いけど朝顔だけでも相当あります、朝鮮やかに咲かせて昼にはしぼむそんな所も魅力だったのかもない。
そんな彼女の最後の句は
「月も見て 我はこの世を かしく哉」
意訳(病気の私は、もう命が短いが、仲秋の名月の夜、今年も 明るく澄みわたった満月を見ることができた。
そして、 世の中のあらゆるものを十分に見つくしたので、思い残すことなく、心やすらかにこの世の中を去ることができる。)
”かしく”は女性だけが最後に付ける事を許された言葉”かしこ”と同じ言葉だったらしいですが、
かしこく生きて世を去る時に「、、それでは、この辺で、 かしこ」とさっぱりと行きたいものです。
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