2013年8月31日土曜日

黙っていれば


「黙っていれば愚か者でもかしこく見える」​


確かに人は、未知な事に対して色々いくらでも妄想してくれます。
だからその推測の中には、「ひょっとしたら、この人はすごく賢い人なのかもしれない」という可能性は僅かなのですがあります。
それは、他人からは外側しか見えない様に、神が造ったからなんですが、
所が、自分が一旦、口を開いて語りはじめると

「しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、」

と、あるように
その内容によって、おおむねその人の魂の力量も測れますし
一部であっても心の内側も、垣間見る時もあるでしょう。
つまり、未知な部分は急速になくなり、大体底が知れる部分が増えてきます。
そうなると、妄想の膨らみも減って「すごく賢い人」と思ってくれる事は、すぐ無くなります。

『民数記』21章17-18節
    

  「井戸よ、湧き上がれ
   井戸に向かって歌え。
    笏と杖とをもって
   司たちが井戸を掘り
    民の高貴な人がそれを深く掘った。」

「黙っていれば愚か者でもかしこく見える」という言葉は
「雄弁は銀、沈黙は金」と、同列的な意味合いで語られる事もあると思いますが、
たかが、人の知恵のその程度の事を、伝える為に、わざわざ、神が書いたとしたら
私程度の者でもその全能性を疑います。
『民数記』21章17の井戸は女性形の”それ”と、書かれてあってイエスの花嫁であるエクレシアの型の様にもみれます。
また”湧き上がれ”とあるのでそれは只の井戸ではなく泉の様です。
井戸は本来深い所から苦労して汲み上げる作業があって初めて役に立つのですが、
常に汲み出していると、ルートが出来て水量が増えてくるモノです。
ついには、溢れる程になるなら素晴らしいですが、それも深く掘って汲み上げてくれる方がいてこそ

「思い計らいは人の心の中の深い水。
英知ある人はそれをくみ出す。」


箴言 20章 5節にあるように、大事なのは”英知ある人””高貴な人””さとき人”。
”笏と杖”も、実際は穴を掘る道具ではなく権威を表わしています。
さて、電気屋的 箴言17章28節は

もし、私の魂が、多くを語らず、霊の前に、口をつぐんでいれば賢きお方が深い所から語ってくれるので

「愚か者も黙っていれば賢く思われる。 唇を閉ざしていれば、聡明な者と思われる。」

とあるように
私でもイエスと同等に見える訳です。
この場合、勘違いして思ってくれるのではなく、確実に思ってくれます。
誰が私の事をそう思ってくれるかと言えば”神”がそう見てくれるのだから有り難い、まさに有り得ない様な事なんです。
もちろんそれだけじゃあなくて、弟子たちにあった人々のコメントのように、
「カスみたいな奴等なのに 、なんで!」とか「どう多めに見積もってもこいつの魂の力量はこの程度なのに、いったい ど ゆ こ と !」っていぶかしく思うだろう。
だって見える所は只の空っぽの穴なのに、汲んでも汲み上げても無くならない
「こんなこと、今まで見たことない!」ってなることもあります。
見た目は只のおっさん、その内側では私の霊が聖霊から汲み上げているのだから、無限なのだ

じゃあ、どうやって魂を黙らせるか、
私の魂が魂に「黙っていろ」と、命じても同級生に先生の様なふるまいで命令する様なモノなので
効果なしどころか、痛い目にあう事も、、そもそも到底無理  そこが自分の魂の魂的なジレンマですね。
じゃあ、どうすればいいの、っていうならヨブ記にあるように鉱脈や井戸を掘った事がある人ならわかる事でもあると感じます。

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