2015年6月18日木曜日

求む「働き手」  byヘブンリーファーザーズ農場

 マタイによる福音書9:35-38

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、
ありとあらゆる病気や患いをいやされた。

また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、
打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

そこで、弟子たちに言われた。
「収穫は多いが、働き手が少ない。
 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、
 収穫の主に願いなさい。」

  

ルカの10章にもほとんど同じ様なことばがありますが、
特に後半に書いてある事もまた霊的な意味での働き手の事です。
クリスチャンなら皆漏れなく頂いている聖霊、そして復活の霊、それが健やかで開かれている人の事です。

実に皮肉な事に、ここの箇所を前で立って語るほぼ全ての教役者自身が間違いを犯している事は現実に見れます。
それはかつての私でもあります。
そして主の「働き手」は、この世には本当に少ないという事です。

そもそも働き手は、父が送ってくださるお方そのもので、自分(私)ではありません。
どちらかと言えばその方を頂いたかも知れませんが、使わせてもらっている様なもの。
それを収める鞘(ケース)としてこの体や手を使っても、実際に働くのは霊です。


私はクリスチャンになってそれなりに年数は重ねましたが、
ホンの2年前まで折角与えて頂いたその「働き手」を塵から取られたこの肉の体、自分の内側、地に隠していた事に気づかせてもらいました。

マタイ25章で

「ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。
『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」


ここのシーンだけ読むとクリスチャンになっても、頑張らないと救いを失う様に感じてしまうかも知れませんが
神の救いはおこないに影響されるような軟なものではありません。イエスは救いの主(ぬし)であって彼を信じた時点で救いは決定しており覆りません。

タラントに「賜物」とか「才能」と言う意味は元々はありません。
ですからこの体をいくら奉仕に捧げても、知的能力をもって教会と言う人の集まりの経理や財政を支えてもタラントを使っているワケではありません。
塵をいくら磨いても所詮は塵です。
ソロモン時代は純銀でさえも大した価値と思われない程の繁栄ぶりだったそうですが
天の御国は大通りが透き通ったガラスのような純金でできています。
どんなに小さくても金は金です。使うために頂いているのですから、それをちゃんと使いたいものです。


「収穫は多いが、働き手が少ない。」

天の父はありてある方ですから父に不足はありませんが、この世で主の働きが出来るものは少ない。

マタイの9章でイエスは、
「働き手が少ないだから、君たち頑張りなさいよ」とは言ってません。
鼻から息をする者を頼ってはなりません。自分の頑張りに頼っても無駄です。
私たちがちゃんと主に向かい主に願うなら天の父は、惜しむことなく与えて下さいます。
なぜならその「収穫」とは、私の収穫ではなく、また教会と言う名の集まりの収穫ではなく天の父の収穫だからです。

「収穫は多いが、働き人が少ない。
だからあなたたちは、収穫の主(ぬし)に願って、
彼の収穫のために働き人たちを、だしてもらうがよい」岩波訳


自分と言う硬い殻が割れて父が与えてくれていた霊が出てくる。
それは泥の中から咲いた蓮の花の様にハッとする程美しいと感じています。


興味深いのはイエスは弟子たちに

「今、私が父に送ってもらう様に取り計らったから」

とは言わず、あえて弟子たちにそれをさせようとする所です。
また「彼の収穫」を全農の、いや、全能の父自身がやるのではなく
あえてそうでない形でやる事に父は喜びを見出しています。

ヨハネ4章

「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。
さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。
それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。こういうわけで、
『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。
わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。
ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」(35~38節)


それはかつては、エデンでアダムにさせようとなさった事でもあります。
もし魂の殻が割れて霊が開かれてないなら父に求めなさい、そうすれば、それが与えられます。
収穫の主は私たちという畑に隠されてある宝を、その時に出す事がお出来になります、なぜならそれは既に私たちの内に埋められてあるからです。
しかし、主は強制的にそれをなさろうとはしない、だから父に求める事が必要です。
知性も努力も時間も必要ありません、それは今日であり、今です、目の前の畑が色づき、刈り入れるばかりになっているからです。


主の前に静まること、主に願う事、自分で必死に頑張るのではなくそのお方に働いて頂きましょう。
それはまるで剣を鋤に、槍を鎌に持ちかえる様な経験です。
プライドを持ち他の人に向ける剣ではなく、他の人をも生かす収穫を味わう生き方
共に刈取り主の倉一杯に麦が積み込まれた後、農夫である父からのことばがあるだろう

「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、
私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』


ヤコブの家よ、
われらもヤハウェの光のうちを歩もうではないか

イザヤ2章5節

写真はお弁当で作ってもらったおにぎりを家内と一緒に食べている時に家内が撮ったモノ
働いた後の、おにぎりは美味しいね~

6 件のコメント:

  1. 私も応募してみました。
    年齢不問、学歴不問、体力不問、家柄不問、能力不問、
    給金は欲しいだけ。気前の良い主人でした。
    ただし・・素直であることが条件のようです。

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  2. こちらでも文通の様なことばのキャッチボール感謝です。

    あの方は本当に太っ腹ですね。
    私は結構ひねくれてましたから、選考通過までだいぶ、回り道していたようですが
    主の憐みと忍耐で何とか導いてもらっています。

    と、言う事はムベさんは私の先輩でもあるわけですね。
    憧れるな~年上の異性の先輩ハハよろしくです。

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  3. 先輩って・・そんなこと言っていません。
    私は疑り深くて、世に素直には生きられないので、逃げ足ばかりが早い者ですが、

    イエス様にはなぜか心を許してしまったのです。
    きっとそれは、始めに主が私を受け入れて、心の門を開いて見せてくださったからだと思います。

    歳から言えば一応先輩ですが。。

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  4. いえね、コメントで

    「気前の良い主人でした。」

    と、過去形になってましたので、こちらはまだ現在進行形なので、その~ムベ先輩と、、
    イエス様には、そんな不思議な魅力がありますね。
    あっちフラフラ、問題発言に問題行動の私ですが、叱られた事ないんですよ。
    彼となら嵐も患難も過ぎ越してくださるので、怖くありませんね(ちょっとビビる時はあるのですが)。

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  5. 気前のよい主人でした・・。
    でも、まだ請求書は出したことがありません。
    無限にもらえることが分かったとたんに、
    くれくれという気がすっかり失せて仕舞ったからです。
    そんなことは、どうでもよくなりました。
    すでに、身も心も満タンなので、置き場所もないし・・。

    はい。私もずいぶん過ぎ越して頂いています。
    主は、私の成り立ちをご存じですから・・耐えられないことはされません。
    でも、それでも必要があったら・・飛び込めるでしょう。

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  6. 「まだ請求書は出したことがありません。」

    言われてみれば私も出した事ない!、、とこしえに養ってもらうんだからちまちまと出す事ないですよね。
    それに、家内がいくら私の為にって洗濯や食事の用意をしてくれても、「今回の請求は○○円ですからよろしく」って言われたらガッカリ、やっぱ愛ですね、愛、すべて愛を以てなし、お支払いも愛 いいねいいね。

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