2015年7月11日土曜日

今朝の想い

 家の周りには水辺があります。
大座法師池、飯綱湖、下一ノ蔵池
冷えた風が心地いい
風がないので水は様々な上にあるモノ
時には天をも綺麗に映している。
父の想いが地でも
今日もちょっと夏らしいいい日になりそう
「実際、私たちの戦いの武具は肉的なものではなく、
神によって要塞を破壊することのできるものである。

私たちは理屈を破壊するのであり、
さらに神の知識に敵対して立てられるあらゆる障害物をも
そしてすべての思いを捕縛してキリストへの従順へと、、」

2コリント 10章4、5節
 神の武具はエペソにリストがありますが
今まで私はこれらを用いてサタンやこの世の様々な悪しきものと戦う様な気になっていた
が、実際戦うのはわたしではない、

「神によって要塞を破壊する」

と、あるように私ではない
それは”神によって”なのである
さらに神が戦って下さるのでもない何故ならイエスは既に勝利している。
では、具体的に何を破壊するのか、それは私の”思い”の凝りかまった塔の様なモノ
その”思い”の中には結構大事なものやどう見てもいつかは役にたつだろうと思えるモノだったり
かなり良いモノもあるのだが、、、、

それが神由来のものでない限り破壊されるべきなのだ
しかし、神は傍若無人なお方でなく
ジェントルでファンブルでなおかつペイシェンなお方ですので
許可なく勝手に捨てたり破壊活動をなさらない
その”思い”は私のモノだからです。
 しかしその”思い”は余りにも次々と湧いてくる
それは感謝の祈りを試してみればすぐわかる
お願いの祈りは結構出来るのですが、神への賛美と感謝はわずか10分とモタナイ
疑う方は是非、試してみて頂きたい

そのうち、ああ、あそこにゴミが散らかっているな~とか
そうだったアレをしておかないといけなかったんだ、、など

それまで忘れていた様な事まで噴出してくるから不思議です。
まるでマジックの様にもう出て来なくて良いような(神の)役に立たないガラクタの様なものが
「いつまで?」と思う程出てきます。
それは何処かに隠して在る様に湧き出してきます。
そうです、その要塞に数多仕込んであるわけで、いくら片付けてもキリがありません。
そんなモノは惜しげもなく要塞ごと破壊して頂くのが、最善にして最高なんですが

「いやいや、あの中には結構使える物もあるんじゃない?」とか

「これだけは取っておきたい大切なもの、それに決して悪いものじゃない」

などなど聖絶するに躊躇してしてしまう自分の思いがある
 しかし、何度チャンスを与えても結局はダメだったサウロの様に自分の思いってものは主の思いと一つになる事はない
ここは潔く主にお任せして聖霊による施術にまかせてみる
任せたつもりでも切られるのは自分なんですからメスをいざ向けられると怖いわけですが
そんな思いも一緒くたに切り取って頂きましょう。
きっと約束の時が満ちて主のビフォアーアフターが完了したあかつきには

「まぁ、なんということでしょう~」

あの使いづらかった心の扉が、あのモノで溢れていた魂のクローゼットが、
身を横たえる事さえままならなかった休まる事のなかった私のあの心の部屋
散らかっていて、見るからに小汚く積み上がったゴミの奥には何が埋まっているかさえ忘れていた
そして見たくない見せたくなかったあの場所
そこが今や主をお迎えする園になる
これが本当の私、自分が自分らしく生きるってこういう事なんだと
神を信じるどころか、神はいないと思っていた私が、主を褒め称える事になる

父の御心を 私の霊に映しこの世に知らしめたまえ
主よ来たりませ!

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