2016年2月9日火曜日

Wonder of a wedding

 結婚という事の不思議さをいつも味あわせて頂いてます。
先日載せた過去ブログの側に結婚について私なりに書いてあり、自画自賛ながら自分の書いたのって面白いなと
大変僭越ながらFbにも載せさせて頂きます。
今から読み返すと、ちょっと乱暴な物言いでもうちょっと言葉を選ばんか!って思うけど
ほとんどそのまま掲載させて頂きます。(また長文)
人生にはさまざまな祝いの日がある。
誕生、命名、100ヶ日、七五三、入学、卒業、成人、長寿、信仰者には葬式も誕生に優る祝いの日。
沢山の人生の節目となる日の中でも
結婚の祝い以上の日は無いと思う。
それは、当人だけではなく、周りの関係する人たちにとっても実に喜ばしい日だ。
式を挙げるか又はどんな形で執り行うかは関係ない。
結婚をするということが、素晴らしいことだと思う。
ある時、
「あなた方は結婚して何年になりますか」
と聞かれた20年になりますと答えると
「では、あなた達はまだ、本当の素晴らしいところは味わっていないわけですね」
とおっしゃられた。
昨日で式をあげてから27年たった(現在33年目)当時、
そして今現在確かにそう思う。
結婚した頃は本当にまだ”ガキ”でただ一緒にいたかっただけ、恋愛の続きのようだった。
すぐ長女がうまれ子育てが始まる。当たり前だが子供のおかげで親にさせてもらった。
子供が成長し大人になって気がついたことは、子育てに一生懸命であまりお互いを見る余裕がなかった事。
友人にあずけて2人だけの時間を持ったこともしたが、子供が小さいうちは、落ち着かない感じでそうそうに戻ってきてしまう。
子育てはそれくらい大きな仕事だと思う。
旧態然とした能登では結婚は家と家の式となる(もちろん両方の親にはちゃんと挨拶は先にしましたヨ)。
私の母が
「お宅の娘さんを頂けなければ、家の息子は死んでしまいます。」
と言ったことを後で聞いて恥ずかしくも懐かしく思う。
また家内の家は少しだけ複雑で彼女を産んだ母にも挨拶に行った。
私は玄関を登る事さえ許されず一旦日を改める事に、
その後、父と母がすぐにお伺いして
「若いしせめて学校だけでも卒業させて資格をとらせてからで願います。」
と言う相手方に
「萩原の家には資格も学もいりません、娘さんだけ頂きとうございます。」
と父はキッパリと言い切ったのだとそれも随分後で家内の母から聞かされた(お義母さん飲んでいたのだ、、)
あれだけ好きだったのに、あのころは何にも知らないでいたんだなと振り返る。
今でも、
「この人、こんな所あるんだ」
新しい発見がありそれはいつも新鮮です(「フー、始まったな~」って思う時もまああります)。
相手を知ることで、互いに目では見えない相手のこころの不思議さを少しは理解させてもらえる。
人生には3つの大きな出来事があるといわれる。
生まれること、死ぬこと、そして結婚をするということ。
3つの中で自分で選ぶことの出来る事は結婚だけです。
もし、そんな巡りあわせに出会えたなら結婚するということもお勧めします。
結婚は独身の頃より複雑ですが、それ以上の価値があると思うからです。
 
考えてみれば結婚とは不思議なものだ。
誰もが幸せをそれに重ね合わせ、そして誰もがほぼ失敗する(ほぼです、例外もあります)。
いつか必ず、恋したとき聞こえていた、あの不思議なメロディは消えてしまう。
駆け落ちするほど燃えた二人が、離婚することも珍しくなく
親が向かいの息子の所行けと言われ嫁いで50年結構幸せに過ごしている人も見てきた。
恋はロマンチックかもしれないが、結婚はオートマチックではない。
途中でギヤをシフトしていかないと、ローギヤのままでは、不快でこんなうるさく遅い車しギクシャク、つい降りてしまおうと考えたり、
ついにはエンジンが焼き付いて立ち往生してしまう事もあるかも知れない。
自分の事を思い返すなら家内とは、「好き」「一緒にいたい」ただそれだけで結婚した。
誤解を恐れなければ、別に結婚したかった訳ではない。
いつも一緒に居たいからそれを叶える唯一に近い方法が当時の能登では、結婚だったと思う。
だから彼女と結婚したかった。
でももしその理由が無くなったり優先順位が変わったらどうなるのだろうか。
”今は、好きでもない。一緒にいて楽しくない。もっと好きな人が出来た。”
などこれらは可能性は十分にある。
人の気持ちは変わるもの、コロコロ変わるからココロと言うらしい。
だから契約で縛るが、現実は厳しい。
契約が逆に首を絞めることにもなる。
ずっと前に私がハーレーを買う時、反対する彼女を説き伏せる為に契約を結んだ
「5年間バイクを買わない」
つくづく『誓ってはならない』と聖書にある言葉の真実さを思わされている(だから誓いの言葉でさえ止めた方がイイのかと考えた事もある)。
私のサインしたその紙が怖ろしいのではない、
それを破ることは彼女との約束を破ることになるので、
私から見て超真面目な彼女に離婚を切り出されると実に困る。
どちらを取りますかと言われたら、、、あなたはどちらにしますか。
ただ、契約には守りもある。それによって私の悪癖も幸いだいぶ押さえ込められているのも事実
彼女が居てくれなかったら
こんなに好きな事ばかり出来ない
帰る港があるから、船は当たり前の様に就航でき
糸が切れた凧は、程なく落ちてしまう
そう考えると『結婚』私にとっては、実にありがたいものである。
 
クリスチャン夫婦が想像ですが、よく言う言葉(?)に
「もし、神様と出会わなければ私達は離婚していただろう。」
が、あると思っている。
実は、私もその一人だが、ちなみにそれは何ら保障にならない
クリスチャンでも十分離婚出来る。
残念ながらクリスチャンに出来ないことは無いのである。
ただ、クリスチャンとして生きて行くなら 本来生まれついての私と違う行動になる(可能性だけど)。
私がキリストを信じ、「長野に行くことが神の道」と家族に伝えた時、私を産んだ母でさえ怒り呆れ、家内に「こんなアホな男とは離婚して、あなたは、この家に残れ」と言った。
私は家内に言った。
「俺は長野に行く、俺と一緒についてきてほしい。
約束する。あなたは必ず幸せになる。
それだけではない他の女が見て”あなたは幸せね”とみんなが羨ましがるほど
あなたは、幸せになる。」
それが、3人目の子を身ごもっていた彼女への2度目(本当の)のプロポーズであり、
その時まで、ただ好きで一緒にいた私たちが次のギヤを変えた瞬間だった(闇雲にギヤを変える事がイイわけではありません。その時が来てないとガクガクします)。
不幸は具体的だが幸せは抽象的だ。これが幸せという形が無い。
私は家内を幸せにする方法を知っていたわけではない。
ただ私には一つだけ自信があった。
”神に従って不幸になることはない”
神は常に最高で、最善で、最良をなさる。
だからそんな神に従っていく私に、従ってついてくる妻を神は絶対幸せにするという確信がありました。
私自身にはそれほど自信が無いが、主なる神には絶対の自信があった。
家内はその時、神を信じていたわけではなかったが、私の言葉を信じてついてきてくれた。
信仰とは神とその人の1体1のものであり、檀家や世襲などはない。
ただ一つだけ例外はあるかも知れないと思える出来事を聞いた。
軽井沢のあるご主人は、誰にも内緒で書斎で聖書を読んでいた。
ある日イエスキリストこそは神であり私の救い主だと信じるにいたり、書斎から出てきて彼の妻に「私はキリスト者になった。そこで聖書に書いてある通り私は洗礼を受けたい。」と奥さんに伝えた。
彼の妻のことばは
「私はいつもあなたを信頼してついてきました。
あなたの信じた神を私も信じて洗礼を一緒に受けたいと思います。」
と言い、彼らは一緒に洗礼を受けた。
彼らはその後、教会の良き働きをなさっていると聞きました。
聖書の中で女性が信じたという書き方はそんなに書かれていない。
たとえば、旧約聖書でサラは
”彼女は約束してくださった方を真実な方と考えた”
と書いてあります。
神を信じてすごす事と神に従ってすごすことは、同じかも知れない。
家内は私の母でさえ
「息子はおかしくなった」
と思った私を家内は
「この人は本気だ」
と信じてついてきてくれた。私はそんな彼女の信頼を決して、
裏切る訳にはいかないのである。
ベッドルームの壁には、まだ結婚のなんたるかも知らない頼りないパンチパーマの私がいる。
よく、こんな男についてきたなと、マジ思う。
実に、感謝な事です。
 
今、気付いたが、ずいぶん彼女とは色んな約束をしている(当時)。
契約はある意味自由を制限するものだ。
私の大切な私の好きな自由を神が私に下さった自由を。
例えばちょっと由々しきことだが、私は結婚指輪を拒んできた。奴隷制度の名残とも言われるものを何故この私が、そんな物で私がなんら変わるものでもない物を。
「実際に見える形じゃなくともいいじゃないか。
 気持ちの問題だよ」
などと言って逃げてきた。
ある日家族で大きな店舗に行ったとき。中央に宝石を売っている場所があった。
家内と子ども達が
「お父さん、面白そうだから、一度だけどんなリングが似合うか付けてみようよ。お願い。」
と、なり渋々家族サービスとしてそうしてみた。はめてみるとこれはあまりにも無骨な私の指にあわないとか
キンキラはやだ、とか少し本気モードに。
いくつか付けてみてその中のプラチナに純金の輪が入り裏にサファイアが入っているリングが気に入った。
ちょろっとプライスを見る。良い物はやはり高い
私が
「はい、じゃあ、おしまい」
となったとき。家内がそれはそれは上品な女性店員に言った。
「これで、お願いします。」
「なに馬鹿なことを言っている。そもそもお金持ってないし。」
「私のお金があるから買ってあげる」
それは、家内のその時1年間貯めた内職のほぼ全額だった。
「俺はいらない。そもそも付けないし。」
「あなた、人に付けさせているのだから自分も付けた方がいいから。」
「、、、。」
結局、買ってもらわされた。
私の薬指で光る指輪をみて言った。
「こんな高いの、、勿体ないよ。」
家内は
「これであなたが手に入るなら安いものよ。」
彼女は少しうやうやしく、私の指にそれを付けながら、ニヤリと笑ってこう言った。
「これで、あなたは私の奴隷よ。」
「、、、あなたの奴隷なら、、それも悪くないな」
愛って言葉で言うと何だか臭いけど、
イエスキリストはそれゆえに、全てを捨てて
実際に見える形で人となられて30年以上この地上で過ごされた。
”確かに不自由な中にこそ自由が有る”
と思うときがある。
エデンの園もそうだったと思うが、神の与えてくださる愛という『枠』は
決して窮屈なモノではなく私の自由を奪うものではないという事です。
指輪の金の部分はだいぶすり切れて消えてきたが
今も私の指には、その指輪がある。
今は決して嫌々付けている訳でもありません。
それはまるで、元からあった 私の一部の様です。
⑤まとめです。
もちろん彼女の指に、今日も指輪があります。
じゃまにならないシンプルなものというリクエストで長野に来てから私が水道管の残りで作った物だけど(一応鉄管でなく真鍮)
いつかちゃんとした物を買ってと思っていたのだが、
彼女はそれで十分と言っていた(今も)。
結婚20年に小さなダイヤの指輪をプレゼントした事があるが、そちらは付けないでネックレスにして使っているようだ。
私たちは性格も考え方も本当に違う。
一言でいうなら、私は自分の効率優先で、逆に家内はゆとりをもって、良しとする。
ゆとりを作る為に1円でもやすい食材を探して買う彼女に、
突然(しかも定期的に)高額な必需品でもないモノを買う旦那(「俺には必要なんだ!」などと孫息子の様に、、)
最近は彼女もそんな私の効率を少し理解してくれた(かもしれない)、
私も彼女の影響を受けて少しはゆとりを持ってきたのかもしれないと感じます。
連れ添ううちに夫婦は何故か似てくるものだ。
だからこそ結婚には、また一人とは違った価値があると思っています。
ですが、最近は私に似すぎて困ることも、、
「あなたが私をこんな風にしたのよ。」
うーん、、結婚は実に奥が深い
またまた長文 ありがとうございました。

6 件のコメント:

  1. さくらパンダ2016年2月9日 21:12

    いやぁ、ますます電気屋さんに司式お願いしたいところですが、
    全く予定ないし、見えもしないです。

    もし奇跡が起きたら、日航ホテルなんかじゃなくて、黒川温泉にご宿泊していただくことになりますよ。

    来週からは楽園ですね。

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  2. 結婚そのものは、確かに奇跡みたいな所ありますよね。
    ちなみに、聖書的には伴侶は神が備えてくださるもので、
    自分で必死に、、というものではないと思ったりしています。(←個人的見解とスルーして頂いてOK) 
    しかしながら、ちゃんと”求めていく”ということは、大切だと思っております。
    神は確かにそれを望んでいて祝福なさろうと思っていますから、、私も一度は家内を連れて黒川温泉には宿泊したいので(何度でも構いませんが、、)
    どうぞよろしくお願いします。
    はい、そんな日も来るもんですね~ありがとうございます。

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  3. 実は昨夜、結婚指輪を探していたとこです。
    突然「我が家の唯一の貴金属は何処だ・・」って思い出してしまったのです。
    主人を亡くして外したのではなく、私は女のくせにネックレスとか指輪とかに興味が無くてずっと外しっぱなしでした。
    「この辺に入っているだろう」と検討を付けた所になかったので、何時か何処かから出てくるだろう・・とあっさり捜索は終わりましたが・・。

    奥様とのストーリーはほのぼのと読ませて頂きました。
    結婚は二人だけの問題ではなく、回りの家族に時に手助けしてもらったり、巻き込んで年月を重ね、いつの間にか二人で家風を作って、いぶし銀の指輪のようにしっとりと落ち着いて行くのでしょうね。

    結婚には、振り返れば感謝がいっぱい詰まっているものですね。
    私は今、主が次男の結婚を備えてくださいますようにと祈っています。

    奥様とハワイを満喫なさってください。
    祝福をお祈りしています。

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  4. 「あああー、憧れーのハワイー航路ー」

    ありがとうございます。それ程ハワイに行きたいというワケでも無かったのですが、これも神様の御縁って事で感謝して行かせてもらうことになりました。
    ブッチャケて言えば現代の結婚指輪なんてクリスマスのケーキ、バレンタインのチョコや恵方巻きと同じ、商品販売の匂いプンプンですが、それも知った上で楽しむ、騙されてみる、そんなゆとりも悪くないかもとフフフです。
    ちなみにたんなるウンチクですが、どうして薬指に付けるかご存知ですか。
    まあ、一番邪魔になりにくいからなのですが、事故などで損失した時にも一番評価さ定額の低い、動きがにぶくて力の無い指ですが、だからこそ役に立つ事があるというのが何となくいいな~と、説教臭くても感じます。
    昔から「薬指」と言われるように、そもそも一番使えない指だから一番きれいだし
    力の無い指だからこそ腫れ物や傷口に軟膏を塗る時などでも優しい(是非、左手をグーにして薬指だけを伸ばしてみてください、人差し指や小指の様に真っ直ぐ伸びない~そのまるで痛んだ葦のようなちょっと情けない姿)
    だからこそ日頃あまり目に求められない左手の薬指が最も注目を浴びる日が結婚指輪をはめる時で『こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが』的なってご存知かもしれませんが数少ないこのブログを読む方の中でもしかしたらこの話知らない人がいるカモとダラダラと書かせていただきました。

    探し物って本当に不思議なものですが、能天気な私などは、

    「たまたま今私がそれが何所にあるかを知らないだけで、この世界にある事は間違いないのだから無くなった訳でも心配する必要すら無い!」等と屁理屈をこねておりました(これもハハハですが)。

    お探しのモノそのうち出てくることを望みますが、本当に事を言えば

    「ムベさんの家の唯一の貴金属、それはあなた自身です。」

    だって金よりも貴いともありますからね。

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  5. 福音的なおちをつけてくださって、そう来たかっ!って飛び上がりました。
    まあ、でも・・「高価で貴い」と本気で信じて疑わない、図太い奴ではありますから・・。

    早速左手で試しました。まことに痛んだ葦状態でした。
    その指に役立つ場を準備してあげる。また、その備えに乗っかってあげる。大人の愛ですね。
    私にはその余裕ある愛が欠けているなぁ・・と思いました。

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  6. ムベさん、主は本当に不思議な方ですね。

    ずっと前に前に一度書いた事もありますが、ある時
    「痛んだ葦」だから折らないのではないか?
    「燻る灯心」だからけさないのではないか?って

    だったエゼキエルのどの木よりも成長し丈が高くなったレバノンの杉は結局主によって倒される事になりました。
    まあ、極個人的には、私の場合勝手に自分のしでかした事で転んだり、頭をしこたま打ったりしてきたのでそんな私を、自分が第3者的立場で見ていたら

    「バカですか?」

    って言うと思いますが、まあそんな事は置いて
    葦でも木でも灯火でも自分で頑張って立っているなら折られるべきなのかも知れないと、、結果その方が主と共に歩む喜びを知る事にもなれるのでオーライと
    まあ、これはちゃんと書いてあるというよりは、私のお遊び的な事で、右から左に流して置いてください。

    余裕ある愛→私も欠けています(正直大欠損です)。
    でもね、無い人は惜しげもなく与えて下さる方に頂くコレ私のまるで開き直りみたいなやり方で、地上の伴侶の側で分かり易く見せて頂きながら天上の伴侶から頂いておるところでございます。

    ムベさん歳末年越しセールならぬ、世紀末過ぎ越しセール中の主の売り場から大阪のおばちゃんよろしく、どれだけの物をその手に奪い取る事が出来るかお互い競争のようですねフフ

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