2016年3月12日土曜日

「どうしてこうなるのかな!」って時

もうクリスチャン生活が長くなっているのでノンクリスチャンもそうなのかは不明 ですが、、とっても良い時間を過ごしたり、素晴らしい経験をしている時に 「何でこんな事が起こるの~?」 事が、ほぼ必然と言ってイイ程起こります(大体最後近くで)。 自分の事を振り返っても、ハワイほぼ最終日の財布紛失 泊まらせて頂いていた素敵なマイルズ宅、これからホノルル空港から帰宅というタイミングでまさかのリビング天井から水漏れ 白馬の方々との楽しい2日間の後の水道管破裂 野尻でキャビンリフォーム中、火災発生→全焼 等々 時には「神様どうして?」って言いたくなります、 が、別に神様が敢えてそうしている訳でも無い事もわかっちゃいるが、それでも、、 そうした事柄全ての裏にはおそらく、、ではなく絶対そうしている輩があるわけで ただそれを(こんな言い方すると何だが)神はある意味ではゆるしている(罰が無い訳ではありませんがその時、神はまるでスルーしている様に見えます。) 何故そうした事が起こるのか、何故地獄の門にも打ち勝つ教会でもある私たちにそんな事が、、 そうした事柄に絶対的な解答を私は頂いた訳ではありません、 が、そうした時に私たちがどうしたらいいのかは、少しわかって来た様に感じています。 それは、ある意味では「気に留めない」その事については「思考停止」させておくなど もっと積極的には「喜ぶ」事かも知れません。 どうゆう事かと足りないことばですが補足すると、とにかく神様のめぐみはいつもでっかくて、沢山あるわけです。 それなのに、小さい事(めぐみに比べて)に捕らわれて、嘆いたり他の喜ばしい事まで一緒に捨ててしまうような行動を神はどう思われるのか。 聖書にイエスが12弟子たちと小舟でガリラヤ湖を渡る場面が出てきます。 途中で嵐に遭ってしまい、弟子たちは非常に怯えてイエスに助けを求めます。 するとイエスが風や波を鎮めてくださって事なきを得る、というストーリーです。 ここで私たちが学ぶことのできるレッスンは、 「たとえ神が私たちと共におられても、相変わらず私たちは『人生の荒波』と出会う」 ということです。 イエスを信じていても私たちは病気になる時もあるかもしれないし、経済的に困窮する時もあるかもしれない、様々な形で人生を脅かされることがあります。 しかしそんな時最も大切な事は、それらの脅威に「キリストなしに立ち向かう」のか、 それとも「キリストはここから私たちを救い出してくださるという確信を持つ」のかという違いです。 私たちの人生を破壊するのは、実は出来事や状況そのものではなく、 それらの出来事や状況を「どう受け止めるか」という私たちの心の態度(又は思い)です。 もし私たちの心が『恐怖』『怒り』『不安』『失望』を見続けてしまうなら、私たちは直ぐ側にある助けを自分の意志を用いてする事を見失ったりしてしまう。 しかし神が私達一人一人に与えて下さっている信仰を用いれば、必ず神が備えてくださっている『脱出の道』へと導いてくださいます。 あなたは1人で『人生の小舟』に乗りたいですか。 それともキリストに同船していただきたいですか。

3 件のコメント:

  1. アーメン
    「倒れてもまた置きあがり、闇に座っていても主が私の光・・」
    その度に成長すると思います。
    キリスト者も、奴に負けず劣らずしたたかであるべきと最近思います。

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  2. ムベさんどうです。何故か行が全て繋がるブログになってしまいましたが、目を通して頂きありがとうございます。鳩の様に、、蛇の様にですね、、

    ああ、もっと成長したいものです(←成長させて下さるのは主ですが)。

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  3. アーメン。私も最近同じようなことを思ってました。

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