2010年4月30日金曜日

匠の技

まっちゃんと建前をした。
凸と凹がピタリと合っていく様は、超気持ちいい。
「うまいじゃん」と誉めてくれたが、
墨を引いてくれたのはまっちゃんで
私はそれを切ったり彫ったりしただけだから今回巧くできたのはまっちゃんのお陰だ。わざと角材にしてないので直角を出すときも難しい。

それにしても、今回も思わされた事は、
私は、木が好き。木は良いものです。木が必要でした。
ただ倒れてそのままでは腐っていく木であっても私の目にそれは高価で尊い。
でも、、そのままでは薪などにはなるが(それでも切り刻むが)、家を建てる事には、使えない。
皮のついたまま、捻れたまま、曲がったまま、枝の伸びたままだと無理。
私の所に来るときはそのままの原木でいいんです。
任せてくれれば、墨を出し、切り、削り、研いていく
木は整えられて色んな所に使える木材になる。

2テモテ2:20 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
2:21 ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。

金や銀が必ずしも優れているわけでもない。熱いお茶を飲むときには木の器の方が軽いとか、熱くないとか具合がよいものだ。
でも、どんな器でも汚い器は使えない、綺麗にしなければペンキ缶にもならない。
せいぜいゴミ入れとして使って聖書の時代ならベン・ヒノムの谷底現代ならゴミ最終処分場にでも捨てるしかない。
私たちは自分でがんばっても、尊いことに使われるきよさになることはない。

私たちの義はボロ雑巾のようだ、一度も汚れたことのない方、その方だけが私をきよく整えてくださる。
今回も丸太をそのまま使おうとしたり、私が適当に線を出してきざんでいたなら、巧くいかなかっただろう。
自然に生えている木は完全に真っ直ぐである事がない。真っ平らな木、真四角な木を森で見ない。
だから、まず、皮をむき、出ているところは削り、大体平らにしてから、墨壺で真っ直ぐな線を引く
それを基準として進めていかないと、しぐちがぴったり合うことはない。
私は工場から出てきた木材は便利だが魅力は感じない。
曲がっていたり、節があったり、部分的に皮が残っているその木の持つ個性や味わいが好きだ。
だから今回も出来るだけそれを残したが、他の木材とぴったりと合う所、全てが協調して、一つの建物となる美しさは、匠の技なしではなしえない。

32:4 主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。

木は削られるとき文句は言わないが、大工用語で「あばれる」と言うことはある。
その時はねかせておく、いわゆる乾燥させる。
期間は樹種によって違うケヤキは70年、針葉樹は冬に倒して葉を着けたまま乾かせると1年でも使えるらしい。でも同じ木でも1本1本違うから癖の強い木ほど長く寝かす。
さらに、大切な所、(例えば床の間)に使うモノなどはもっと長く寝かす。大体、苦労して育った木ほど良い木になる。痩せた土地、水のない岩の上、崖の先、高いところに育ったモノは成長は遅いが、木目が詰まっていて、香りも強く、しかも個性もある。
最低なモノは植林された木で、特に畑の下などは化学肥料を吸って成長は早いが中はぼこぼこで弱く、根を張らないので風で倒される事が多い。
乾燥させるとき水の中に沈めて寝かしておくとさらに良い。
水の中で乾くのか、と思うのは素人で、樹液が入れ替わり具合が良く早い。
天皇家の材として使う木は海と川の合わさるところで20年は沈めた木材だと聞いた事がある。
その時、あばれるだけあばれさせておくと、実に辛抱強い求められた事に答えてくれる品性のある木になるという。そんな偉そうな事を書いている私はどれくらいねかせられるのだろう。

2010年4月29日木曜日

う~ん

私は初めての人に会ったとき良く言うこと

「失敗した○○です」
「もし、私とおつき合いなさるなら、十分気をつけてください」
「私は実に人間関係の問題を起こす人間です」

これは一見謙遜そうにも見えるがその実
相手に責任をてんかして「だから、いったじゃない」風の
本気で変わろうとしてない不遜な声明でもある

昨日、家内が
「人に手を見せる事があるから、
ガサガサの手は良くないとハンドクリームを塗るなら
人前で話すとき、口に軟膏を塗っていただいたらどう。」



う~ん 北島康介ではないが「なんも、いえねー」

2010年4月28日水曜日

道の向こうがわ


丸太から挽いた木材をまっちゃんと加工した。
長さを測り、臍穴を掘り細工をしていく。
一本の線を出すにしても、基準となる所から地道に出来る限り正確に出していく。
日本古来からのやり方をまっちゃんから教えてもらう。
休憩時、お茶を飲んでいたらまっちゃんから聖書を読んでみたいという
私は言った。「なんでや」「一度読んでみるのも悪くないとおもってな」
「じゃあ沢山持ってるからやるわ」「ありがと」
渡すとき進言しておいた。「この本眠れない時、いいぞ」

枕にしても具合がいい高さだが、量が半端じゃなく内容も難解
もし、面白くなったりして、かえって目が覚めてしまったら、
結果的には得をしたことに必ずなる。

私の言ったことも嘘ではない。
読み続けても全巻読むには10日くらいかかるから、大体眠ることになる。
このブログを見る方は聖書を読んでいる方が多いと思う、そうであって欲しい。
ベストセラーだの知識や教養、正しさを養う事などは、どうでも良いこと。
イエスキリスト、彼がどの様な方か聖書も読まずに決めてほしくない。
聖書を見ていくと、初めからずっと「救い主が来る」とそればかり繰り返されている
あるところで「救い主が来た」と、かわり、又そればかり繰り返すことになる。
最後の所で また「もう一度くる」となる。聖書、分厚い割に実は結構単純です。

私の人生を振り返ってもその時々に救いとなった出来事がある
ちょうどその時、実にタイミング良く与えられた事を思い返す。
自分の家を作っていたとき、外せない予定がありコンクリートの最後を家内に任せて、離れた。途中でコンクリートが足らなくなった。家内は「困ったなー、あの人はいないし」と見上げると目の前にコンクリートがあった。これ幸いと家内はそれを運んで、無事コンクリート工事を終わらせてくれた。あとで「何で、そんなところに?」と聞くとたまたま、コンクリートミキサーが家の前を通りたまたまレバーを動かしたまま道にコンクリートを空けていったと思うしかない事だった。
ちなみに家の前の交通量は多くなくその時以来15年私が頼んだとき以外コンクリートのトラックは通った覚えがない。実に有り難い事。
その日ぶちまけられたコンクリートの道は長くアスファルトにシミになって続いていた。
その道の先はすくいぬしにつながっている。

2010年4月27日火曜日


高い所に住んでいると、大変な事もある
でも、それ以上の楽しみもある

桜や紅葉を長い時間楽しめる事もそうだ
これは長野市からのちょうど中間地点の桜
私の庭では梅が咲き始めてきた
連休には桜も戸隠に、のぼってくるだろう

木を切り、畑を耕す
不器用な私にはそんな日々があっているのだろう
桜のようにふさをつけ咲くことは私にはない
人が見上げてその美しさを楽しませてくれる桜を見るたびに色んな思いが浮かぶ
今日もまたすこし桜はのぼってくる。

2010年4月25日日曜日

温度差



今朝も薪ストーブは消えていた。
暖かくなったから勢いよく燃やさない事もあるのだが
温度差が少ないことも消える原因の一つ。
外が-20度なら室内は+20度その差40度は空気の流れを作り出す。
今は外は10度で室内20度でその差はは少ない。

恋愛でも結婚でも回りの反対や障害があったほうが燃える。
駆け落ちしても一緒になる程の思いで、結婚してほしいと願う。

私の生まれた町(郡だが)では教会が無いし、キリスト者を知らない、ただ手元には聖書はあった。
その言葉の力だけが私をキリスト者にしてくれた。
信仰に入る前には、ただ、吟味して読んでいた本が、信仰後は喜びを持って読めることに驚いた。
夢中で、暇さえあれば読んだ。読むことは、楽しかった。
読むことで沢山の事を教えてもらった。
教会というもの、兄弟姉妹という人との交わり、集まり、賛美、祈り
会ってみたかった。行ってみたかった。賛美というものをしてみたかった。
祈ってみた。
主は生きていて答えをくださる。

家族と長野に来て、本を書けるほどの事の中でいつしか喜びをもって聖書を読めなくなっている自分を見た。、必要や義務ある意味お手本から読むようになったからだ。
私の状況は他の方から見たら順風満帆にみえたことだろう。
知人が尋ねた「最近聖書、読んでる?近頃、祈ってる?」

読みたくないなら読まない、祈りたくないなら祈らない、お腹が空いてないのに12時だからという理由で食べたくない。食事をするのは腹が減るからで、食物はそのためにある。私は飢え死にするかも知れない。その時は私の中に元々命が無かったのだ、もし私の中に永遠の命があるなら必ず項垂れた枝を伸ばし葉を茂らせ、実をつける。そんな話を伝えた。

あれから8年、昨日待ち合わせの場所行くと誰も来てない。気になっていた創世記と手紙の所を読んだ。
1時間以上過ぎて気付いた事は私が時間を間違え早く来たことと、聖書を楽しく読んでいたこと。

私は家内と付き合っていた頃、良く手紙を書いた。2年で300通程になるだろうか。
内容量も少なくない、定形外郵便物も珍しくない、嫁いで来たとき段ボール2箱の私の手紙を持参してきた。後で見たら中には封を切ってない手紙もあってちょっとショックだった。
「書く方が大変なんだからせめて読んでくれよ」「なんで好きな人からの手紙読まないわけ」

その時の私の言葉を、昨日は思い出して笑った。
昨日の朝はデッキに神様の絵があった。今日も主は生きてらっしゃる。
温度差は時には良いが、いつもでは疲れる事もあるだろう
今日は雲一つない青空が暖かくなることを教えてくれている。
神様と私の温度差はどれくらいあるのだろうか。

2010年4月24日土曜日

ベルの息子


携帯が突然鳴った。
いつも電話とはそんなものだが
故郷の先輩夫妻が「今、塩尻」これから来るとのことで
2日雨で体を動かす目的のプールから慌てて揚がってきた。

彼は7歳上でバイク以外接点はない。
しかし、それだけでも共有出来ることは悪くない。
「夕食どうしよう」とか「ひっとしたら泊まるかも」など
いわゆる旅人をもてなすことはめんどくさい事もある。
ただ、「お前のところに寄るから」と言うその気持ちが嬉しい。

誰しも何かののスタイルを持っている。
ただ、それしか認めない事になると狭い付き合いしか出来なくなってしまう。
彼はBMWに乗っているが、「これが一番」「これ以外はバイクではない」
となると私は彼とは楽しむ所を見つけることが出来ない。

良い意味での「私は私、あなたはあなた」の中での刺激を楽しみたい。
”共に苦しんだ友より、共に喜び合える友のほうが、、」という話もある。
私にすれば、片方が出来たならもう片方も付いてくるハズだと思う。

彼とは、去年バイクで高速道路一周という無駄な楽しみを共にしたから
3ヶ月前に彼が事故で指を落としたと、聞いた時、病院に向かった。
実は今回も「外泊許可をもらっての奥様と犬の旅」だそうだ。
悲しみや苦しみを只それだけで終わらせず、
楽しみや喜びを見つけることが出来るなら人生は決して悪いものではない。
楽しみや喜びが、苦しみや悲しみを越えさせてくれる

久々に実家に帰れてリッラックスするサンダーさん(犬)を見て、
天の実家に戻ったときの私を見させてもらったようだった。

2010年4月23日金曜日

蕎麦は好きですか。


久々、うずら屋さんへ行ってきた。

戸隠では紫峯祭という文化祭をするときに小学生はフキを採ってきてその財源にする。フキなら何でも良いわけでもない事も小学生に教えてもらった。
その250kg以上のフキを買い取ってくれるのも、うずら屋さんだ。
正直、出来合いを買った方が安いとおもうのだか
問題作りの私はPTAの時ご迷惑をかけた事もあるが、
そんな事もあり彼の人間性も少し見えたようで嫌いではない。

数ある戸隠の蕎麦屋の中でも
リピーター率も断トツだと思う。
理由はいくつかある。
場所が良い、混んでいても相席させない。
お客さんが急かされたような気分にさせない対応
山葵まで戸隠で取れた物を使う材料へのこだわり等あるが
なんといっても椅子の数を増やさない事が良いのだと思う。
今日の分だけを打ち、仕込み、その分が出たら終わり
混む日は昼で無くなる事もある。
美味しい店は沢山ある。が、多くは沢山の客が来る様になると店を改装し
椅子の数も増やす。
沢山の量をまかなう為に材料も変える時もある。
自分のポリシーを崩す気持ちは周りにも伝染していく。
結果味が落ちて客も次第に減っていく。
リピーターは新しい味を求めて来るのではなく
またあの味を、同じ味を、変わらない味を求めてくる。

哀れなことにキリスト教(の)会も同じ轍を踏んでいるように見える。
人が増えると建物を建てたり、新しいイベントをやりたがる。
本当の意味で教会に来る人は、教会らしい建築物や、立派な人や、飾り付けられた新しい話などは求めていない。蕎麦を食べに来る人は店主に会うことが目的ではない。


実は私は蕎麦が好きではない。
蕎麦は貧乏な食べ物だと思う(ごめんうずら屋さん)
でも戸隠に来てからは来客が来ると時々行く
何でも、本物は好きです。
本当に良いものは宣伝する必要は無い。
喜びや良い知らせは少し時間がかかるかも知れないが、
自然と伝わっていくものだから。
注目を浴びる事や、ブームになる事、自慢する事、出しゃばる事、その人の背丈以上の事をやろうとすることなどは
長くやっていく為にはじゃまにしかならない。

彼は会えば名前を呼んで笑顔で挨拶してくれる。偉そうに書いたが確かにいくら美味くてもヤナ奴には近づきたくないから、人間性も程々に大切だな。私も出しゃばらず本物を出せたら良いなとホントに書いていて思ってきた。

神よ、不遜なものに、謙遜をあたえたまえ