「文字は殺し、御霊は生かす」
そうであるなら(そうなのだけど)、聖書の言葉などを振り回す事の愚かさ
自分のことばの正当性を示すための聖句の引用の空しさ
スポーツでも日頃の生活でも、気が付いてもわかっていても
なかなか自分がその様に出来ないジレンマがある。
見える様になったけれど、まだ殆んど何も出来て無い
実に悔しい、、けど、それがわかって嬉しい
弁天鉱泉での夕食でランチョンマットの様にひかれた紙の一枚には
「カッコ悪い事を沢山経験している人が、カッコいい人」
と、書かれてあった。
確かに十字架のイエスは、肉から見てカッコ悪いしかしだ、、
”うーんまだまだだな、そうなんだろう、たぶんそうなんだ。”
大事なのは知識を詰め込むことではない
わかっていても中々古い体質は、まだまだ抜け足りて無い
イエスを信じてからも脱皮の様な経験が一度だけじゃなく、あるとするなら
背中から羽根がはえた様に空中で主と会い見えるまで、なんと遠い
しかしそれは、
この世界に居ながら永遠に対して 私がまだ沢山の事をさせてもらえる
そんな希望でもある。
この世界に居ながら永遠に対して 私がまだ沢山の事をさせてもらえる
返信削除そうですよね、日常の一つ一つがそういう意味を持つんですね。
思っていた以上に まだ遠いなってかんじ
返信削除銀じ朗さん まあ ゆっくり行きましょう。
こんにちは~ふーむ、ふむふむ、聖書の言葉を振りまわす、聖句の引用を空しさ、、むかーしのブログに書いた現代のアメリカ教会が殆ど使うトピックサーモンのことが思い浮かびました。 しかし御霊のささやきは人それぞれに異なる形で現れるんでしょうね。 そして頂く(読む)たびに新しいささやきを得ることができる、なんとも耐えなく満たしてくださる食べ物(御言葉)なんでしょう!!
返信削除PS ふみえ こと、ピンポンパン、こと、もみじ饅頭です。またブログを始めました。
ふみえ こと、ピンポンパン、こと、もみじ饅頭、ことミセスLさん お久しぶりです。
返信削除「頂く(読む)たびに新しいささやきを得る」
アーメンです。
それ頂くたびに、ものすごく甘ーいもので満たされたような充足感がありますよね~
あー、最近、聖書の話書いてなかったから、腹減っているのかさえ分かり辛くなってましたよ。
まさに、霊の食べ物、御言葉ですね。
あぁ、なんか腹減ってきたー