さてさて、白馬で見させて頂いているクリスチャンの事をどう説明すればいいのだろう
とにかく今まで会った事がないか、会っても、こちらがスルーしてきたかもしれない方々だろう
ただし、彼らの周りで、主が救いの働きを活発になさっている事は間違いなく
「えっ そんなに簡単に(まあ、福音は単純なものだけど)」
って思うほど、シンプルで素直な流れの起きる
例えば彼らが、ある人と合いその人が救われる、するとお風呂でも何所でも水を張って洗礼を
そして次の日、その人が知り合いに伝えて、信じて一日目の人が洗礼を施す
そんな流れで、ぷよぷよの様にばたばたと5連鎖ほど人々が救われていく
彼らの不思議な特徴がある。
聖書の話をほとんどしない、かといって、聖書の話を知らないのではない
こうゆう、恵みがあったとか、今まで知らなかったこんな発見があったという話もない
彼らもバイブルスタディをしているそうだから、一体どうゆう進み具合でやっているのだろうと
一度一緒にさせて頂きたいと思っている。
とにかく祈る、祈っていることは、間違いない
彼らは、押し並べて良く祈ります。
祈ることを躊躇しない、ある意味では深く考えないでその前に祈るという感じがするほど
実際、彼らと接していると聖書に知識を積み上げていく事の意味を考える。
もちろん、聖書は神のことば、主の考え方や意志が、文字として書かれてある。
だけど、それを喜々として知恵や知識、能力を用いて知る、知っていく、解き明かす事は
、せっかく足場を積み上げていても実際登っていない、使っていない、
とりあえず、その高さを誇っている様な
聖書の知識や真理は、脳と言う古い創造を経由している限り、知識の木の実の愉悦には浸れても
魂の救いにはほとんど関与していない様にさえ感じて来ている。
何故なら、自分を実際に動かしたり、変える程の神様からのアクションがある時には、経験的には
上からことばが降りてくるからで、それには聖書の知識や解き明かしは殆んど高慢や分裂の元や邪魔にこそなれ、役には立たない気がする。(これは私個人の今までの事で、ボンヤリとした事象で確信というモノではありませんが)
鳥肌が立つような、解き明かし、新しい御言葉の真理、誰も話した事や聞いた事のない聖書メッセージ、それらがワラのようなモノでしかないとはいえないけど、、
どんな高性能で使えてこその機能であって聖書の知識や真理も
使わない事には、何の意味があるだろうか。
なかなか面白そうですね。詳しくはわかりませんが、主の栄光の現れ方は多様です。またレポートしてください。
返信削除このタイミングで主が見せてくれるもの
返信削除つくづく私のなせることは、選択だけなのかもしれないと思いはじめております。
お久しぶりです!携帯のニュースフィードアプリを削除した後、電気屋さんのブログを探しなおすのに一苦労しました~笑~電気屋のブログというブログ名は昔のブログ名だったのかな、、
返信削除”何故なら、自分を実際に動かしたり、変える程の神様からのアクションがある時には、経験的には上からことばが降りてくるからで、それには聖書の知識や解き明かしは殆んど高慢や分裂の元や邪魔にこそなれ、役には立たない気がする。” ゆるく同意です。
神と人との関係はパーソナルであると簡単にいいますが、本当にそうだと思います。 人間を使ってキリストが伝わってきていることには間違いないとは思いますが。 そして人間一人ひとりの違いが、別の人々に時を用いて使われる。(”会っても、こちらがスルーしてきたかもしれない方々だろう”)。 人生はだから面白いのかも。
ミセスLさん ”ゆるく同意 ありがとうございます。
返信削除おひさしぶり~です。
どうもすみませんね~ 、何かひとりごとの方がふさわしいな~って思ったモノで、ハハ
人生は面白いですねー