2015年3月10日火曜日

主の時間

 福島に向かう車の中で家内が

「あっ、聖書忘れた、、」

「いいじゃない、自分らが神のことばだからさ」

大そうな事を言っていると自分でも思いながらも全くその通りと思っている。
本当に主は不思議な方だ。
そろそろ会いたいなというタイミングで道を備えて下さるもの

交わりというものは移動中でも居酒屋でもかまわないけど
私は家が一番落ち着くというか、大概一番いいことばを主が下さる気がする。
2年以上会ってない感じもしないままモモさんが

「そういえば、聞いてみたい所あったんですよ、どこだったけ。」

とルカの16章の所を読んでもらった(聖書を持ってないからネ)
少しだけイントネーションの違う、丁寧で聞きやすい綺麗な声が自分の中に落ちていく
以前の私なら待ってましたと、ばかりに
いわゆる”良い話”をしようとか”期待に応える”とばかりに
知識や知恵、例えを例えようとしたり、とにかく喋り捲っただろうと思うとちょっと可笑しい
そこの箇所についてちょっとだけ家内とモモさんが話した後

「まず、一番いい方法を言わせてもらうなら『直接主に聞いて下さい』と、なるんですが、、」

と切り出しながらちょっとだけ自分の魂から距離をとりつつアウトラインだけ語ると、二人がまた話してくれる。
文字面や日本語のことば、文脈などを頭を使って出来るだけ読み取ろうとしないで
父は何を伝えたい。
その父の想いをイエスが語ってくださる事を期待する。
人生の半分はクリスチャンをやってきて気づかされた事は
そもそも聖書の解釈は一つではなくその時主がどう働かれるかで
違った意味どころか真逆の教えともなる、という事

だからモモさんがその場で思いついた様にしてくれた事で
こちらも準備することもなく、今日主は何を語ろうとされているか
そんな思いにワクワクする感じでことばを待つ。
最近ハマっている生ハム、モモさんのクラブサンドを頂きつつ
誰かが一方的に話すでも、結果を出すでも、模範解答をするでもなく
いわゆる”なんかイイ感じ”に流れていく
すると、主はスルリと挟み込んでくださるのだ(←それが待ち遠しい)


午後からは友人のアッコちゃんも来て下さり楽しい出会いとなり
少しタガが外れた私はやや暴走気味になり
楽しくも暗くなってくる福島を背に長野に向かいました。
じゃあ、また いつかどこかで

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