先日、家内が突然「聖書を読みます。」とマタイの25章を読んでくれました。
何度も読んだ所だけど、新しい発見があるものです。
では、そこからの内容を、分かち合えればと書き記しますね
10人の乙女らは各自、自分自身のともしび(当時は松明でしょうが、、)は持っています。賢いと言われる5名は、他に油を器に入れて持っていただけの違い。
婚礼の迎えが遅れて深夜になり全員が眠ってしまった。
真夜中に呼ぶ声があり、全員は起こされ、それぞれ自分自身のともしびを用意した。
所があまりに遅い時刻だったのでそのともしびだけでは足りなくなる事が予測されたので
油の用意のない5名が油を買うために出ていくと花婿が来て婚宴の間に入り、戸が閉じられた。
その後、愚かな5名はその扉の外で入れてくれる様にお願いするが、拒否される。
13節のことばでは
「だから目を覚ましていなさい。あなたたちはその日や時刻を知らないからである。」
でこの話はしめくられているが、面白いのは、
「だから油を用意しておきなさい。」
って書いてないワケで、目を覚ましているという事が運命の分かれ道の様な書き方
しかし、乙女らは全員寝ていた。
普通「なんで?」ってなる所ですが、
盗人の様にやってきますよ~ってほかの箇所で書いてあるように、
わざわざ寝たのを待って押し入る様な所もあるので、泥棒に入る方が悪いのか、入られるほうが悪いのかという話にもなるかも知れない。
このたとえにはわざわざ最後に親切にヒントがあって
「あなたたちはその日や時刻を知らないからである。」
とあるように、”知らない”または”知ることが出来ない”
、、という事を知る大切さを教えてくれるようです。
「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」
とあるように、いくら聖書を読んでも、学んだり、それについて聴いたり語り合ってもそれは、聖書について神について救い主イエスについての知識を身につける事は出来ても
聖書に書かれてある方、唯一の救い主イエスキリストと、個人的に付き合うこととは全く違うという事の差で
ヲタクやファンクラブの会員、マニア、追っかけ等の方々は、プロフィールや特技、CDの売り上げ、オリコンランキング、ブロマイド出ている映画や番組などは熟知しているかも知れないが
実際に彼(彼女)と付き合っているとか結婚しているなら、身長が何センチであるとか体脂肪率がどうのとかはほぼ関係ない(靴のサイズや指は何号とかは知っていた方がいいですが)
そして、私も家内と結婚して30年以上たちますが、まだまだ新しい発見をしたり、「そうそう彼女はそうだった、、」と再確認をさせられたり、とても知り尽くせる訳ではありません(それでも誰よりも知っているつもりだけど、、)とにかく目が青いとか黒いとかそとづらはすぐに知れても内面は深い泉の様なもの
それとは別に”賢い5名は、油を器に入れて持っていた”
つまり油は自分自身とは別ものの様な感じすらする書き方にも読めますが、、
聖書のことばを、知恵を用いて父なるお方の考え方を読み解こうとする様な傲慢さこそ愚かさの極みなので注意する必要があります。
ある有名な説教者が詩編を長い時間をかけて調べ語り本にした後書きに、詩編を掘り尽くした事を残念にも感じるとありましたが、そんな事ありません。
例え有限なこの地球でも人類は原油でさえ掘り尽くせないと思いますし、ましてや神のことば
神の前に賢くなる為には、この世的には愚かになる様に見えるところも多く
賢い5人の乙女は、いつ来るか自分では予想すら立てなかったからいつでも良い様に油を用意していたかもしれませんし
愚かな5人こそが、この世では賢かったとも言えるかもしれません。
花婿が迎えの時刻を「普通はこれくらいだし、もしひどく送れたとしてもこのくらい」などと
自分で推測して「これくらいあれば十分」と自分の知恵や常識に頼っていたなら
それを覆されるような、ある意味非常識な真夜中に迎えに来る、などということなど、ないと思っていたか、
日頃から花嫁修業や支度に忙しくしていたか、もちろん分からないんですが、、
まあ教訓として”神のことば”を読むような愚かな事にならない様に最近は自戒しております。
そうして読むと聖書、面白くない、キツイ、嫌な事が多いです。
昔、メッセージする為に、食べたくもないのに無理やり美味しそうに食べないといけないグルメ番組の様に無理して食っていた愚かさを思い出します(グェッ、、失礼)。
マタイのたとえでも、何だか眠っちゃいけない様な、罪悪感、日頃から注意し続けないといけないような閉塞感ばかりとなります。
大事なのは、古い呪縛からの解放です。
自分や他の人の言葉や、世の知恵や常識などに縛られないで、自分の足でちゃんと歩いてみる
その為に主は足を各自に付けてくれましたし、穴に落ちても主は安息日でも助けに来てくださる。
そもそもクリスチャンなら、永遠のいのちを受けている訳でそれを失う事などないから無敵と言ってもいい 実にハレルヤです。
5人の愚かな乙女らも救われない訳でもないだろう、ちゃんとともしび持ってますし
そもそも油がいくらあってもそれだけでは世を照らす事は出来ません。
5人が買いに走ったガソリンスタンド(昔でいうと、油屋)のオヤジさんは迎えにも来てもらえませんから、、自分に与えられたともしびって、それだけでスゴイ!ものです。
先日の停電してろうそくだしてテーブルの上に置いていたんだけど、
暗闇に灯っている明かりは、ウットリする程綺麗です。
ただそれだけでは婚宴の間に入れないというだけ、まあこの差も小さいないと思いますが、
明かりがある間に、次の用意をという事でもあるかもしれませんが、
それは努力や才能ではなく、教えられてわかる事で、多くは”ことば”によります。
エステル以外の花嫁候補が努力しなかったとは思えません。
主権は神でありその選びであり、それに自分がどうこたえていくかで
あくまで、自分ではなく主をその主権を認め自分の知恵や理解や納得できる話、呑み込めない話でも自分の手から主に渡す事、神の選びを暗闇の時でも覚えて安息する事
私がもう一度ここに書くのは、どれほど注意して用心深く、周到に準備をしていても、ダメって事を知って下さい、って事。
それが自分や人から出た物なら無理って事です。
自分が裸である事を知る事、今の衣を脱がないでは、主の用意してくれた礼服は着れないという事を知る事
主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのすらも、むなしいって事を主の前に認める事(事が多すぎですが、、)
「若者も疲れる」とあるように、私たちの体が眠らないではいられない様に、私の魂も疲れずっと目を覚ましているということは出来ないから
罪によって霊が死んだ故に、魂は体をパートナーとして生きるという状態になっている。
しかし、所詮,土くれから造られたもの故に脆く、疲れてやがて眠りの時が訪れる。
その時、魂も一緒に眠ってしまう。
しかし主の霊と交わっているなら、イエスと個人的に付き合っているなら、
詩編に主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。とあるように
父である神は今日も働いておられるとイエスが言ったように、
それを知るなら自分自身のともしびには頼らない、
わたしとわたしの家は主につかえるといったヨシュアのように
私自身である”私の魂”とその器である”私の体”は本当のあるじである霊につかえる事で本来の本当の生き生きとした魂、そして健やかな体となる
自分のともしびを見て、これで大丈夫だと思わない、
自分や知っている事に縛られない
ましてや自分は出来ている、やっている、という事を見つめない出来たら知らない事がいい。
眠らないのは父が子にくださった良きお方だけ、
私たちは、歯を食いしばる様に頑張らなくてもいい
主の懐に健やかに安息していい その霊は眠らないからです。
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