2016年4月30日土曜日

2016年4月30日

 いかがお過ごしでしょうか。
今年は残雪が少なく庭も庭と変わらぬ畑も緑になりました。
7年ほど不耕起農法(と言っても耕さなかっただけですが)の畑を少しだけ手入れしました。
畑の脇のニリンソウ、たらの芽も食べごろだったので早めの夕食を先ほど完了です。
明日もいい天気みたいですね。





2016年4月27日水曜日

軽トラでも楽しいね

 今日は昨日届いた床材26パック搬入 軽トラは働き者です。
お昼はちょっとピクニック気分でのお弁当
家内はこの時間が一番盛り上がっている様です。
 一緒に働いていると、行き返りの車の中でいろいろ話をするわけで、、
今日は種まきの喩えの箇所

「道端」「岩の上」「茨」「良い地」の四択です。
自分こそ「良い地」だなんて自負しているクリスチャンまたはノンクリスチャンは
そもそも問題ありだろうねとか、もともと「良い地」の人っているの?
居たとしたら、そんな人しか救われないの?
じゃあ救いなどは恵みでも何でもなくその人の資質じゃん、とか

結論は出てませんが、イエスは「私の父は農夫です。」と言った通り
農夫である父が荒れ地を開墾し、一人息子も御霊も手伝って
どのようなところでもエデンの園の様に、いやそれ以上になさるから

いやいや主は誠に素晴らしい、となりました。

2016年4月26日火曜日

春も美味しいね

 天気がとても良いから、今日はバイクで現場まで
未舗装路なのでGSだとそれも楽しいです。
 帰りにワカサギを、、
まっちゃんの分も頂いたので夕食には十分です。

 帰り道飯綱高原と戸隠の境です。
 戸隠に抜けました。
 家内が「裏のたらのめも大きくなってた」って

 一緒に頂きました。
ご馳走様です。

2016年4月17日日曜日

春の山菜


 帰宅したら家内が次女とよもぎ餅とよもぎ団子を作っていた。
アズキも甘さ控えめで良く出来ました。

私もカタクリと三つ葉の蕗の仲間を採って来たのでお浸しと天ぷらに
それにしてもまったく癖がありませんね。
実に良質の澱粉です。




 ホウレンソウや小松菜、アブラナなどでも臭く感じる私ですが
カタクリはほんと上品です。

造り主に感謝

2016年4月16日土曜日

主の御計画

「お客さんの予約取ってあるので連休前には工事をしないといけないのです。」

その様な電話を頂き急遽車山高原へ
仕事は無事完了しましたが

 「明日8時から礼拝があります。よろしければ参加して下さい。」 

とのことでその日は一晩泊まらせて頂き出席に預かりました。
奥様の演奏で賛美、聖書箇所第二列王記5章1節~14節

まず彼が語ってくれたことはナアマンの歴戦の優秀さや将軍と言う地位ではなく 神の前の彼の立ち位置です。

「主がかつて彼によってアラムに勝利を得させ、、」

とあるように イスラエルの敵国と言っても良いアラムの将軍にも恵みを与え 目を注がれておられる主である神様 
そしてナアマンの信仰 彼は信仰が無い訳でもないという事
 彼はイスラエルのいち少女の言葉によりアラムの王に許可を得て 手紙と金銀晴着を持って出かけます。 
ただ彼が「こうだろう」という方法やプロセスを通して癒されると思い込んでいた。


それを受け入れられない頑なさを変えたのは彼のしもべの言葉 道徳的には、彼は日頃から僕の意見を聞ける将軍だったからとか、ナアマンの性格的資質に注目するかも知れませんが、私の経験を通して感じるのは、神である聖霊なるお方がまるで私に僕のように仕え、諭し、導いて下さったという事で
人の意見に耳を傾ける所のない私を誰よりも知っているお方は、タイミングを見てねんごろに私の魂に働きかけて下さり、頑なな私の心を何度も揉み解して下さってきた。 

イエスはある日、会堂で預言者イザヤの書を手渡されて読んだ時に、ある箇所で意図的に読むのを止めたために、会堂にいた人々の目がイエスに注がれました。

 「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4:21)

イエスが意図的に読むことをやめた箇所のみことばは私達異邦人に対する復讐の箇所でイザヤ書61章2節には

「主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ」

とありますが、その後半の部分をあえて読まず、神の救いの計画の隠された部分を炙り出します。 イエスは二つの奇蹟エリヤの時代シドンの女に対してなされた恵み、エリシャの時代にツァラアト(以前の訳ではらい病)がきよめられたナアマンへの癒しを取り上げ、イスラエルには多くのやもめがいたにもかかわらず、またイスラエルには多くのツァラアトがいたにもかかわらず、異邦人のやもめとナウマンだけに主の恵みが注がれたことを語ります。

 ナウマンのいやしの出来事は、単に、難病がいやされたということを意味するのではなく、それは副次的な事ともいえる部分で 大切な事は神の救いのドラマにおける隠された戦略を備えた出来事であった事実を見せてくれます。

 現代の私たちは、何処其処で癒しがあったとか、この人の祈りが奇跡を起こしたとか、不治の病から生還したとか聞くとその人に注目したり、その人の信仰を褒め称えたりしがちです(←自分の事です)。

でも本当に大切なのは目を注ぐべきは、その計画を今から2600年以前に施し、2000年前にイエスによって明らかにし、今日も変わらない救いと癒しを神はなさっている事実

 誰かのメッセージを聞く時ついつい 「いいお話でした。」とか 「どこそこがとても良かった」など評価しがちな私ですが 大事なのは「神のことばは相変わらず素晴らしい」とか 「真直ぐ、御ことばを語られて感謝」 毎日彼らは二人でも礼拝をやっているらしいのだけど その為だけでもまた参加させて頂けたらと思えました。

我らの主は相変わらずワンダフルでございます。

2016年4月14日木曜日