例えば明日が遠足で
「早く寝よう 寝よう」
と思っていつもより少し早めに歯磨きなどして
床に入り 一心に寝ようとするなら 多くの場合 寝返りを繰り返す
同じ様に
「安息しよう」 「休もう」 「脱力しよう」
と、頑張ればするほど 何処かに無駄に力が入っていたり
周りの人から見て その様に見えても 実際は 力が抜けきれていないもの
休むという事は力を尽くして思いや知恵を尽くしての事ではない(むしろ逆)
先日まで友人の玄関のリフォームで内戸を作る事になり
せっかく作るならと 気合を入れてやってみたのだけど
2度も同じような 失敗を繰り返した。
日を改めての 3度目の挑戦(ホントは挑戦などしたくないのだけど始めた仕事は終わるまでやるしかないし)
せめてそれなりに 終われたらと思って作った内戸が思いのほか上手くいった。
「3度目の正直」ですよ、などと言ってくださるかもしれないが、決してそうではない事は自分が一番知っている。
今までで、一度も凄い作品を作ってやろうと思ってそうなった例もなく(その時は気づかないけど後で人の評価を見れば一目瞭然)
ところが 結構、いい加減に楽しみながら作ったものが 後で みたら二度と作れない作品になったりする事も多いから不思議なもので
そこが ”ものづくり”の 面白いところですが
信仰生活も 似た所を見つけたりします。
自分的な解釈ですが、体の知恵と、魂の知恵と、霊の知恵はあきらかに違っている。
一番低い立場に位置する体に組み込まれた知恵でさえも 実に驚くべきものでそれらが確かに造り主の元から来ている(しかし体も魂も汚れきっているのが問題ですが)。
例えば脳死の人から臓器を取り出す時は、ちゃんと麻酔をしないと暴れたり泣き叫んだりするといいます。
魂とのアクセスが切れていても 体は神から与えられた知恵ともいえるもので守られている。
だから本気で死のうと思っても死にきれない時があったりして 不本意ながら生き延びる時も 結構ある。
本来なら最も上位に位置する霊の知恵であっても 魂の知恵から見た時はどう見ても愚かしく見えるので
結果、ほとんど魂の(自分の)思いが最優先される事になる(救われた直後は別だけど)。
魂は霊的な知恵を装う時も多いので(特に年数を重ねながら霊の成長のないクリスチャン、オレか)
霊は霊によって見分ける様に 魂は魂的な事に斜交していきやすい
多くのキリスト者は知らずして自分に騙されてあげているような状態を見ていると思う(昨年までの私がそうであった様に)。
おそらく救われた時に 小さいながらも、みずみずしい霊のいのちのまま 健やかに成長できていたら これほどややこしくない(なかった)のだろうが、
いつのまにか 聖書を魂の知恵で読んだりしてそれを 魂的な納得で置き換える事などを繰り返しているうちに
本来霊の書物である神のことばを 魂レベルに引き降ろす結果になる(のだろう)。
それらはやっぱり自分の魂の問題であって神学や教会生活の弊害に置き換えそれらを罵倒する行為は責任を擦り付けているようにも見える。
なぜなら全ての救われた人には、もれなく蘇った霊がバンドルされているからである。
さて では一度魂に傾き切った指導権を 霊に取戻すには どうすればいいのかというと
わかっていても これがここで書いて それを読んでたとえ理解しても
所詮それが魂の理解だからそもそも書く事に意味が見いだせない作業となる。
この夏にカヤックに乗っていた時Dr.Luke氏にひとつだけ確認したことがある。
「ひとつだけわかった事がありますよ。霊に働いてもらうには ”どうすれば 霊を使えるようになるんですか?”などとは相手が誰であっても尋ねない事...ですよね」
河の流れもあってお互い少し離れ回転しつつ 彼は人差し指を私の方に向けてこう言った(と、思う)
「That's right」
私は すでに霊の何を得たわけでも ましてや何かを知っているわけでもない
ただ、霊の働きに気づけただけ(正確には気づかせてもらった)
それが実に、感謝なのです。
画像は 友人の家に付けた引き戸 古く見えるけど新しくつくったもの
以前からあったもの、私にとって新しいモノ それは霊でもあります。
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