2010年9月30日木曜日

凸凹道

昨日から新しい現場の仕事が始まった。始まるはずだった、始めるべきでもあったかもしれない
が、その家のオーナーご夫婦と林道に走りに行ってきた。だって空がこんなにも青いから、、
前日の雨で水たまりもあったりえぐれていてガレた場所もあったりしたが、そんなちょっと厳しいかなー的なセクションにトライしていく事が楽しいのだからおかしいんちゃうと自分でも思う。
ガキの様にドロドロになって家に帰り風呂につかって新しい現場をちゃんと出来るのだろうかという不安と葛藤する。それは凸凹道のチャレンジと似ている感覚でもある。そんな不安をくずして満足に変えるには今日を地道に怠けず焦らないで続ける事、過去の失敗や未来の不安より目の前にある事を見て取りあえず出来る事からやる。大人になっても子供の時の様な緊張感をもって新しい今日を楽しみたい。

2 件のコメント:

  1. 「愚か者は平らな道にもつまずく」とあります。しかし、主にある者は凸凹を楽しむことが出来ますね。

    一方では、「主の通られる道をまっすぐにせよ」とあります。
    これは、みことばの標準に合わせて凸凹をなくすことです。

    みことばの標準と天に至る地図を自分の中に持っていることで、山や谷の起伏や、大きなわん曲をチャレンジとして味わうことが可能になるということでしょうね。

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  2. 何気ない馬鹿野郎の日常から
    みことばを通して天の真理をコメントしてしていただきありがとうございます。
    誰であっても、聖書の解釈に足りないところや行き過ぎた凸凹がある事と思います。
    交わりを持つ意味の一つは足りないところを足してもらったり出過ぎた所を削ってもらう機会となることもあるでしょうね。
    どうしても一人だといびつになってしまいがちですが、天から注がれる雨が水の流れになりその中でぶつかり合ったり転がったり時間をかけて丸く小さくなります。アブラハムに「あなたの子孫は海の砂、空の星の様になる」と言われた方の言葉を借りれば、成長すればするほど小さくなる雰囲気もありそうですね。
    湖の湖畔を主が裸足であるかれても痛くない平らな道を用意できたらいいですね。
    「みことばの標準と天に至る地図」を持って今日も人生の凸凹に向かってみます。

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