2010年11月11日木曜日

リフォーム




友人宅のリフォームがだいぶ終盤だ。
何度かやってきているので、どこをどうすればどうなってくるかはわかっているが、それでも、整えられ綺麗になっていく様はいい気持ちだ。
やることはいつも大体同じ、取り壊し、片付け、新しいものを搬入し、しかるべき所に取り付ける。削り、磨き、油を塗りこむ、明かりをつけて、水をひっぱってくる作業。
私たちの内で新しいことを創められた方は最後まで諦める事無く事をなしてくださる。
スッカリきれいになった家には共に住んでくださる方がいてこそ楽しくまた良い状態に保たれる。
昔のイスラエルでは昔の日本と同じで漁師の子は漁師、大工の倅は大工だ。
イエスが大工のせがれとしてそこに生まれた事も意味がある事だ。

4 件のコメント:

  1. 確かにキリスト者は新築ではなく、リフォームされた家のようです。

    アダム由来のものを活かすという意味ではありませんが、主は私たちを根こそぎ取り壊すことなく、土台をキリストに代えてくださる。

    そして、私たちの人格や歴史という家の構造を完全に崩さずに新しくしてくださるところに感動があるような気がします。

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  2. 「リフォームされた家のよう」

    そうなんですよね。
    御言葉は本当に不思議です。

    「見よ、全てが新しくなりました。」と書かれてあるのにです。
    アダムが食べた、善悪の知識の木につながっていた自分が、いのちの木に枝ごと接木される、まさに上を壊すことなく土台をかえてしまうという事をなさるわけですが、それはマジックでもギミックでもなく、大いなる犠牲を払って与えられたもの。

    これらの事を天に行って裏側から見たとき、今知っていることや味わっていることがほんの一部と知って驚くでしょうね。、まさに一粒種で二度おいしいです。

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  3. 織部の陶器に一度割ったものを継ぎ合わせて焼いた茶器があります。

    こういう「美」を追究した日本の茶人の感性は天才的だと思うし、霊的真理にも通じていると思うのです。

    美しいものは聖書的です。

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  4. 本当ですね。
    何事でも、いんぎんに突き詰めていった先にあるのは
    キリスト。

    探し求めるものはそれを見出すとあるように
    主はその秘密を示す神でもあると思います。

    完全なる天において、まだイエスに傷跡が残されている事は傷跡さえ美しく見て取れるほどの贖いと栄光があるのでしょう。

    聖書はイエスについて書かれてあるので、
    「美しいものは聖書的です。 」
    その通りですね。

    似ても似つかぬ私が似たものとされる(見た目ではないでしょうが、、)事は、神の軌跡(奇跡)と呼んでいいと思います。

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