2013年6月8日土曜日
新芽
まあ、久々にこっちのブログを使ってみたら、何だかやり難い事 以前、
こっちからエキサイトブログに移った時は、前のは使いやすかったな~と思ったのだから自分勝手で不思議な気がします。
人間は一旦慣れ親しんだパターンが楽だし、なかなか変えようとしない 脳は、いちいち私という主人に確認せずに、ほとんどの事を勝手にいつも通り動かしての事後報告も多い
確かに逐一、箸を上げるも降ろすも確認されていたら面倒臭いし、かえってスムーズにいかない。
今、リフォームをさせて頂いている所の脇に冬に切られた栗の木がある。
初めは葉を落とした状態の死んだような感じだったけど、春になって新緑が出てきて、今では結構立派に葉を茂らせている。
切り倒されているのだけど、まだ生きようとしている、ただある時期になると葉を茂らせている事も災いして一気に枯れきる。
ヨブにはこう書いてあります。
「14:7木には望みがある。 たとい切られてもまた芽をだし、 その若枝は絶えることがない。」
確かに枯れる前に接木したり挿し木したり、根が地中で状況が整えられるならひこばえ(孫生え)のチャンスもある そうした点では、人も似ています。
生きてさえいれば(本当は、切り倒されていて、霊的には死んでいるのだけど)心の深い所でいのちの水を得るなら、新しくいのちをも得る。
主に接木されるなら私という枝も生きる。 私も主を信じたあの日から、もはや以前の私のいのちではなく、永遠のいのち、イエスキリストがわたしに替わった(生きているつもりだった)。
体が魂に確認を取らずに、条件反射的に生活するように、私は本当の主人に確認を取ることもなく過ごして来た。
パブロフの犬の事を私は笑えない、同じ様な事を繰り返し続けてきた。
確かに全ての事を霊に確認取っていたら、かえってスムーズに生活できない、そんなクリスチャンもいるだろう。
「今日は会社までAルートで行くべきかBにすべきか、主よ導きたまえ」などとウザい祈りを主はどうおもうかな。
主はあるじですから、用事がある時は私をいつでも呼びつけ仕事を命じるものです。
大事なのは、声があったときちゃんと聞く事、聞いてもそこで動いて頂くのは古い私では主人の思いを成し遂げる仕事は出来ないと知る事。 イエスを呼び出して、彼に確認をとって(とにかく大事な所などは、大工でも親方に確認してもらうもの)魂が体に命じてこの世に働きかける。
「主よ、お話し下さい。しもべはここにおります。(または聞いております)」
何回も出てくるお決まりのパターンですが、ことばをもらってもそもそも私では無理なのだから、真の意味でこれを言えるのはイエスだけ だから静まっていないと聞こえない、
聞くのは私だから、聞いてイエスの元へ持っていくイエスの霊が私の魂に命じて、私の魂が体に命じる。
実際はイエスが働いているのだけど、世の目から見るとまるで私が成しているように見える。
こうして、私という見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになります。
接木された木は実に不恰好に見える。 歪にゆがんだり、ねじれたり、ふくれている、
でも良い葡萄酒になる葡萄は接木以外からは採れないから不思議です。
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