今朝は静かな朝
北アルプスは雲が少しあって 戸隠連峰の今日です。
眼で見るより赤が出ないのはカメラをまだ使えてないんだな
アメリカ程では無いにしても聖書には沢山の翻訳の種類があります。
これにはこうゆう特徴があるよ、とかこの訳はこんな風に面白いよとかは言えますが、、
さてどれが一番いいんですかって言われてもちょっと困ります。
もし実際に聞かれたら「今、持っているヤツでいいですよ」って答えるかもしれません。
誤訳の無い聖書なんてこの世界に無いんですから(私が勉強した範囲では)そもそも
原典なんていかにも崇高そうな偉そうな名前で呼ばれている元のモノなんてちゃんとそろってないんです。
特に新約ってほとんど誰かさんが誰かさんに宛てた手紙ですよ。
例えば第二コリント人への手紙を例にするなら
いつどこで誰がやったかは知りませんが、あれはたぶん、5つのバラバラの手紙を合体させたもので
しかもパウロさんが書いたので無いモノも入っている(と思った方が納得あります)、、
例えば2コリ6章の14節から7章の1節はすっ飛ばして読むと文章が繋がっていてスッキリです。
ここの挿入にはパウロなら書かない言葉や書き方の特徴もあるし
6章の13節で”心を広げてほしい”から7章の2節”心を開いてほしい”は文脈的にも言葉の流れでも関連ありますが
突然6章14節にはクリスチャンはノンクリスチャンと結婚してはいけないとも取れる様な話が入って来る。
ちなみにそれがイイのか悪いのかは各自の良心に照らし合わせてご判断お願いします。
それは逃げではなく、その人の聖書理解、信仰、良心次第で滅びるケースもあるからです。
キノコでも、食べたみんな死なないでしょ(一家の場合はDNA似てるので別)。
福音書でもノンクリスチャンにも聞かせて大概 深いいい話となる
ヨハネ8:1ー11 姦淫の女 の話でも原典では(多分)ありません。
元はヨハネさん書かなかったと可能性が確信的に高い。
そもそも写本ってやつもそれぞれでバチカンやマソラなどでもそのまま読めてもどうでしょうか?って具合です。
そもそもローマの国教がキリスト教になって初めての翻訳からしてどうなんでしょう。
権威者の琴線に触れる翻訳をすれば簡単に首が飛ぶ時代、人間的には気持ちわからいでもない
だから
「神以外に権威はない」という箇所がD難度変換で
「神によらない権威はない」とまるで政府や法王の立場を権威づける翻訳になってしまうわけ。
ヘブル語やギリシャ語がどれだけ出来ても原典が揃ってませんし、たとえそれがあっても
事実、ユダヤ人たちは ほとんど真理を知ることはありませんでした。
「じゃあ一体どうすればいいのさー」
「ここは信じてもいいけど、後で挿入されたのは聖書じゃないってこと?」
って頭を抱える必要はありません。
私たちクリスチャンは聖書は使っても 聖書に仕えている者ではないからです。
事実クリスチャンの事を”新しい契約につかえる者 ”とあります。
「文字」に仕える者ではなく、「霊」に仕えるものだからです。
2コリ5;7なぜならば私たちは、信仰によって歩んでいるのであって、見えるもので歩んでいるのではないからである。
2コリ3;3 墨によってではなく、むしろ生ける神の霊によってのものであり、石の板ではなく、むしろ肉の心の板に書き(刻まれて)いる手紙である。
飛び出る絵本というのがありましたが聖書はまさに語り出す本でもありますから
自分で解釈しないで教えてもらえばいい、だって内側には原典以上のお方、神のことばなる方がいるわけですから。
どうぞ思い込まないで、そして出来るなら色んな可能性を知って、ただ鵜呑みにしないでどうぞ御自分で確認してください。
そういった意味では誤訳の種類が沢山身近にある事は主を既に知っている者にとって
逆に真理をしる良いきっかけにこそなれ障害とはなりません。