少しだけ雲海が広がっていた。
冬には良くある光景なのだけど、その日によって霧の勢いが優ってツナミの様に押し寄せて来て
家の周りも一面乳白色になる時もある。
いつもと同じ場所であっても隠された部分が演出してくれる美しさもある。
半分冬休み気分になっているせいか
私自身は あまり振り返る事をしない方だと思うのですが、
以前の自分のブログを少し見てみました。
その内容のほとんどはどうでもイイことですが、
やっぱり年末の自分で言う所の「魂の殻が割れる事件」の後の
「神の国の種」 http://dennkiya2.exblog.jp/17173565/
で、今から見れば肩に力が入り過ぎだしギコチナイ感じ、
でも 自分の転機になった時期の事で実はブログ自体よりコメントの方が内容がある気もします。
だけどあの時しか書けないものなのだろうな。
大事な事は、書いた内容が善い(正しい)とか悪い(間違っている)などの問題ではなく 風が流れたかどうかって所
風は隙間やスキ間がないと吹かないモノで、例え聖書の知識であってもギチギチに詰め込んで適度なゆるさが無いなら、
線路や橋脚であってもそれ自身で自分を壊してしまうもの
森などでも葉や枝ばかり茂らせていると日光が奥まで射し込まず、風の流れが悪くなって病気がちになります。
パウロの言っているように
とにかく「自分は知っている」とか「この事については調べ考え抜いている」と思い込んでいると、
とかく自分の目の中の梁さえも見えないもの。
そんな事に気づけただけでも、いや、気づけた事こそ
「ハレルヤ」
なのです。
多分信じた頃は、そんな事、自然でいたし、やれて(させてもらって)いたんだろう。
それがいつしか 新しいいのちを古いいのちが包むように
魂が 霊的に振る舞う事を覚え、習慣化していた。
だってこれって自分には一番便利だもんね。
それにしても、狭く古い鉢植えの中でビッシリと根が広がり尽くしていたような 行き詰まり感から
急に無限に広がっている牧場に出てきた様な気分だった。
そして、思った以上に
「チッポラにある神の働き」 http://dennkiya2.exblog.jp/17212000/
が、面白かった(←これが特に自画自賛)。
おそらく読む人毎のチッポラがいるかもしれないけど(チッポラは自分でもあるからね)
それが幅があるって事で、
そうするとまたその幅の中で風は思いのままに吹いてくれる可能性が生まれる。
二個前の記事にコメントしようと、昨日、奮闘しましたが、エラーが出て、断念しました。
返信削除この記事にも通じると思うのですが、神がおわすことと生きておられることを実感できる以上の幸いはないと感じる今日この頃です。
主に置かれた道に主を認め、逆らわないことを習わされています。
魂が霊に代行しないようにも教えらrpれますね。
makoさん
返信削除体調の苦しい中 コメントありがとうございます。
仰る通り神のリアリティを得る事は幸いですね。
魂は焦ったり、怒ったり、うな垂れたりしますが、
自分であって自分では無いような私の霊を、ことばで表現する不思議さ。
黙示録のヨハネの様に 主のことば 主のなさる業を そこにいて
ただ見る それでいいのかもしれませんね。
電気屋さん、
返信削除アーメン過ぎて、内に迫られるものがありましたのでしばらく沈黙して冬眠します。
久しぶりに(?)聖書読んでみようかと。
ありがとうございました。また会う日まで、
shigeさん
返信削除「しばらく沈黙して冬眠」 ありがとうございます。
私もそうしようかな
私も読みたくなった時”だけ”聖書 読んでいます。
いつか また