2013年12月27日金曜日

そもそも 霊的って ドユコト?

 朝8時半に家を出て近くのゲレンデに 
高速リフトで登ってみるとまだ誰も跡をつけていない斜面が広がっている
明け方積もった雪は15cmほど これが30cmあれば最高なのだけど
それなりに降りて行けば 悪くない
幅広の板の恩恵で その程度の新雪でも浮力は十分だから ラインを選べば
まるで水の上か 風に乗っている様なフェザーな感覚が 実に気持ちいい

クリームな所だけを味わって10時過ぎには本日のスキーは終了
家に帰って来て 薪ストーブの上で ゆっくりと膨らんでくる 実家のお餅に海苔を巻いて頂く これまた外はカリカリで中はもっちり最高です。
 スキーは落下していく遊びだと まっちゃんが言っていた。
なるほど そうするとさしずめバイクは自らのエンジンと言う推進装置で重力を作りだす様なものかもしれない
120km/hくらいでクルージングしていて一番その感覚があったのは
ビューエルで 全く振動がない状態で自分が 地面の少しだけ上を飛んでいる様な気がする
もちろん フロント周りが一切見えない事も それを感じさせる要因になっているが
あれだけ鼓動感にあふれたエンジンが それを味あわせてくれる 意外性もある

ショベルもイイ感じだったけど どこかそのうちぶっ壊れそうな不安感が付きまとっている感じ
F6Cも実にシルキーだけど爆圧を6個に分けてあるだけで 意外と一発一発は小さく残っている
ただビューエルの蹴飛ばされる様な加速と違って 
金管楽器の様なマフラーから 音階を上げながら加速を続ける感じは素晴らしい
他が全部悪くても あの音とフィールだけで そばに置いておきたくなる

スキーが 重力で落下する遊びで
バイクが エンジンで前に推進する遊びなら
クリスチャンライフは 霊の羽根で浮遊する様な楽しさかもしれない
 詩編42:11
「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。
何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。
神を待ち望め。
わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」

地(体)に伏した魂は、重く泥が纏わりつくようなもの
足元ばかり見ないで 頭をもたげ 高みに目をむける
神は霊を用いて 上から引き揚げてくださる


ところで、ある人が霊で歩いているとしても 実際 みえているのは その人の行動
では、何をもってそれをうかがい知る事が出来るのかというと
やはり、霊は 霊によって知るというシンプルさ

ただし霊特有の傾向というか流れと言うか絶対と言えませんがパターンはあるような ない様な やっぱりある
ある人はそれをみて神を賛美し、またある人はそれをみて何とも思わない何とも不思議なモノ
 基本 魂は寂しがりなモノで 人から嫌われたり悪く思われる事を良しとしないと思います。
また自分のアイデンティティを保守しようとし、
それまで自分が尊敬しないような自分になる事を嫌う傾向があろうかと、、
だってそれしかないんだからね

それに対して神の霊から降りてくるモノは何と言ってイイかとにかく自分じゃない
自分がその様な自分の行動に対して

「アレッ」とか

「俺ってそうだったっけ?」

って、
その自分の行動の後になって いぶかしく思うほど
 こうしてブログを書いていても以前は 自分の書いたブログの内容に対して
少しでも大勢の人が読んでくれることを願っているし、
読んだ人がそれを読んでどう思ったかのレスポンスをまるでプレゼントを送った相手のリアクションを見たいかの様に期待

実際にコメントがあると(特に自分を許容する様な持ち上げてくれるコメント)ワクワクする自分
暇が出来ればチェックしたり、ある程度定期的に書かないとアクセスが下がるんじゃないかとか 
イイ事を書こうと何処かで思う自分

前に書いたブログよりイイ事を書きたい、書こうと何処かしら必死
以前の自分そのものが 恐ろしく 低い話で
それを越える事などそもそも大した事もないのにである

様々な聖書の箇所を無理くり引っ張ってきての釈明 
こんなのは大体において魂的だと思う
また、誤解であっても自分が嫌われたくない様に先手を打つ様な行動や
自分には説明責任はあるというイイ訳を繰り返すこれまた魂的

情けない自分やみっともない自分を出来るだけ人に知られたくない見られたくないそんな自分になりたくない
それも生まれたままの人であり、また魂的
ここまで書いて、私が書くところの”魂的”って 

「一体何なのさ」

「霊的って 自分の嫌な事をする事?」

「そんな事をするってなにかに 操られているの?」

とか思うかもしれないけど、それでもやっぱり自分の選択だから不思議
自分がどうだとか、勝ったとか負けたとか、正しいとか間違っているとか、
永遠や天上の事、自分に神がしてくれた事を思う時、

「そんな小さな事どうでもいいさー」

的な気分になってくる、それをすることや、そんな自分であることもそれほど嫌じゃなくなっている
じゃあ逆に考えて私が書いている所の魂的って


「何なんですか?」

「それが何か悪いですか?」

「それに何の問題がある?」

って思うかもしれませんが、
なんも悪くないです。むしろ イイことも沢山ある
ただ、神の選別は それが「善か悪か」ではなく 
それが「魂からか霊から」かだから 永遠には繋がらないよーってそれだけ
イイとか悪いとかではなく”霊的”か”魂的”の説明をしているだけですので、、誤解の無い様お願いします。

また、いつもこれは魂的か又は霊的かなどと 考えている事自体がそもそもウザい
結局は自分でやるんじゃなく 神が私の体を使ってそれをさせてくださるのだから 私は当事者な様で傍観者の様
奥さんが旦那の帰りを待つように 微笑みながら家の事に勤しむ
それが降りてくる時まで 自分のやりたい事や楽しい事(それが静かに休みたいならそれ)を素直に
まるで子供の様に 味わっていればいいんじゃないかな

知識や(聖書の知識も含む)人の意欲は(神を喜ばせたいとか 従いたいとか、、所詮無理なんだけど、、)
自分の内側から湧いてくる 魂の善と 似ていて なまじ悪くないものだから実に対処がしにくい

「いつか使えるだろう」

「こんな時には必要になるんじゃないか」

「もったいない」

的な感じでとっておいた部屋の隅や物置の荷物の様に本当に始末が悪い
それだからこそ、上から降りてきた神の意志をはっきり聞くとか知るクリスチャンライフは
何ともお気楽なんです だって請求先又は全ての責任は神にお願いします状態ですから
自分で工夫して取り繕わなくてもいいんです。
クリスチャンは天国からの大使であって フルタイムの公務
倒産する事も失業する事も日毎のパンにあり付けない事もない 

「クリスチャンは完全なる公務員であって 親方は 義の太陽なるお方」

こりゃあ、やめられませんね。

詩編の岩波訳もいい

「なぜ、お前はくずおれるのか、わが魂よ、
 なぜ、うめくのか、わたしに対し。
 神を待て、私はなお かれを讃えたいのだ、
 わが顔の救いを、わが神を。」

4 件のコメント:

  1. こんばんは。
    霊的と魂の違い説明というか描写するのに
    ご自分の心の動きを例にだされてて、とっても興味深く読ませていただきました。
    電気屋さんって、正直ですね。
    別に魂を悪者にする必要はさらさら無いと思うのですが、
    やっぱり、新しい人になると、魂の働きを嫌う傾向はあると思うんです。
    人のじゃなく、自分のね。
    私は、アクセスが上がってくると、読者が増えることに執着する自分が嫌なので
    ブログ自体を削除したり、違うブログに切り替えたりしてきました。
    人のコメントを気にしたり、レスを待ってたりする自分も嫌います。
    でも、きっと、そんなこんな本当はどうでも良いのでしょうね。
    これは霊とか、これは魂とか考えてたら疲れちゃいます。
    でも、やっぱり、主の羊は基本的に主の声と御心にだけ、真の喜びを感じるんだと思いますね。
    あと、来週の日曜日のルークさんのニーの黙想がめちゃめちゃ共感したのですが
    電気屋さんはどう思われますか。
    どなたかとわかちあいたくて、この場をお借りしちゃいました。

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  2. makoさん 

    私はこんなものだけど 内側におわす方が自慢です。

    実はニーさんの所は読んでなくって、、、
    沢山の大兄(おにい)さんの事を残してくれていてまさに小兄(にい)さんだなーって感じで
    読んでいて、そうそうって頷いちゃいます。
    大した分かち合い出来なくってごめんね~ですが、またよろしくお願いします。

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  3. 「霊的」ってことは、霊じゃねいですね。

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  4. Saltさん 霊からの事は この世にあっては多分に霊的なものですが 霊的だからといって 霊からの事とは限りませんね。

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