ルカの11章には 友達の友達の為に パンを3つ貸してくれというたとえがあります。
旅の途中で夜訪れた友人おそらく
「さっき マクドナルドで食べてきたから何もいらないよ」
って事はなく お腹がすいた状態だったのだろう
しかし 訪れた友の家にも パンのストックもなく
その友達の家に 深夜にもかかわらず パンを貰いに行くという話です。
前後の話も見ると このパンが聖霊であることが わかります。
ルカ11-3では岩波では「必要なパン」となっていて
ここのことばは聖書中マタイの6章とあわせ2回だけしか使われてなく
御偉い学者さんの見解では 解釈困難らしい
「必要」以外の解釈可能なことばは
「明日のパン」
「来たるべき日のパン」
「今日のパン」
「日々のパン」 らしいのですが、、
まあ生きていく為に必要なのが「パン」であり日本人でいう
「ご飯が出来たよ~」の 「ご飯」になると思って頂いています(麦も稲も同じ仲間だしね)。
この「パン」が「聖霊」って所には ほとんどのクリスチャンの方々は異論がないと思いますが、
問題はその使い方となります。
旅人の友が あそこに行けば、パンがある、あそこならストックしてあると 叩いたドア
その家はイエスの父の家
そこから 貸してもらうパンは もちろん聖霊ですが
クリスチャン人生にとって イエスと言う友を持ち、聖霊なるパンを借りてから
「さあ、どうしますか?」と、いうわけです。
借りたものは返さないとというわけで マタイの25章には天の王国のたとえがあります。
いわゆる「タラントのたとえ」ですが、
タラントには本来「才能」とか「賜物」という意味はないハズ(多分)。
タラントとは「はかり」の事で 重さの単位でもあります。
何の重さの単位かといえば 「金」ですが
英語訳の影響で「タラント」が「タレント」になったように 大体がスピンオフ的に派生した流れの意味だと思います。
本来の意味の「はかる」 そして 「はかり返される」で「タラントのたとえ」を見ていくと
ちょっと目には クリスチャンになっても 怠けていたら大変だな~的に読めるかもしれません。
ただ「タラントのたとえ」をよく読むと 「それを使って」とありますから
商売で何が儲かるかといえば その商品を独占して商いをする事で
このタラントが現代の金額に換算すると何千万だとか何億だのはどうでもいい話
真夜中に パンをストックしているなんて 他にないんですから
寒い時はおでんが 暑くなったら ビールが売れる以上に
飢饉の時に パンを持っているなら 絶対と言ってイイ程 売れるんですから(タダでだけどね)
いつだって、どこにだって、
それを使えば絶対 無駄になる事はない
だってそれ自体が生きているパンですから
そのパン自体が 導き、教え、働いてくれるのですから
クリスチャンにとって大事なのは心配しないで 惜しげなく使えばいいんじゃないかな~
まかされてはいるんだけど 地の中に埋め込んだまま隠しておかないで
今からでも掘り出して 使ってみる事
古いアダムの体は 地のチリから創られました。
それ自体は 少しは有益程度のものでしかありません。
しかも 古い創造までの 使用期限 正直賞味期限は切れていそう
イザヤだったと思いますが、
「私たちの義は ボロ雑巾のようだ」 (電気屋訳)
この肉は 破れた所を繕ってみたり シミや汚れた部分をどれほど注意深く丹念に揉んだり擦ったり 自宅で洗濯してみたり 世のクリーニング屋(さらし屋)に出して漂泊してみても
神様の前に立つには ダメになり過ぎているので
それは捨てて 神が貸し与えてくれる衣を着ればいい
ぜんぜんもったいなくない
まあ神が太っ腹なのは 使いもしない僕にも 聖霊を貸し与えるということなんだけど
その貸し与えられた 聖霊の 肉と言う金庫の中に入れたままで
実際に使ってみるという「わずかな事」でさえ しなかった者であっても
約束は約束だから 「永遠のいのち」はもらえるんだけど
せっかくだから 取っておかないで、
どうぞ 「必要な パン」を「来たるべき年に」 惜しげなく使って
新しい地 だけではなく 新しい天にも 入りたいですねー
2014年も よろしく お願いします。
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