梅雨あけが近づくほどに、雨も激しい時が多くなります。
雨にうたれながらもアザミが花を咲かせています。
ここらではアザミは食べるからか刈り取られずにいます。
信州の名産”おやき”にはアザミというメニューもあります。
聖書では
「あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。」
それ以前は
「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」
と書かれていてそこには神の祝福である様々な実がいつでも手を伸ばせばそこにあった。
”生きるもの”であった人は生き続ける為に、上を見上げ手を伸ばすという形で神の祝福を受け取るだけで良かった。
しかし善悪の知識の木の実を採って食べたことにより、神からの祝福が絶たれ、人は下を向いて額に汗して自分のちからで土地を耕しそこから、はえ育ったものを、食べて肉の命をつないでいく状況になる。
神に造られたものは、神の考え方やさまざまな栄光、そして真理などを私たちに教えてくれます。
罪によってあたえられたアザミにはアザミにしか表現できない特性を持たされています。
なんだか人に似ているように感じてきます。
野に咲くアザミは今日もきれいです。
イバラとアザミに代表される人の罪の影響を受けた不自然な自然と、私たちはどこかで折り合いをつけてきたのです。
返信削除つまり、エデンの園にはなかった様々な要素をひっくるめて自然と呼ぶことに、私はずっと不自然さを感じてきました。
そんな違和感を、ただ創世記の記述だけがすっきりさせてくれました。
確かに自然の中の不自然さがありますね。
返信削除ヨブも
「あのころ、神はわたしの頭上に/灯を輝かせ/その光に導かれて/わたしは暗黒の中を歩いた。」と言ってますが、聖書だけがその不自然さに光を与えてくれます。
本来神が与えた人というものの特性はどれほどでしょうね。天国が待ち遠しいです。そこではもう私は棘のある言葉を吐いて周りを傷つけることもないのだ。
ハーレルーヤ!