2016年4月16日土曜日

主の御計画

「お客さんの予約取ってあるので連休前には工事をしないといけないのです。」

その様な電話を頂き急遽車山高原へ
仕事は無事完了しましたが

 「明日8時から礼拝があります。よろしければ参加して下さい。」 

とのことでその日は一晩泊まらせて頂き出席に預かりました。
奥様の演奏で賛美、聖書箇所第二列王記5章1節~14節

まず彼が語ってくれたことはナアマンの歴戦の優秀さや将軍と言う地位ではなく 神の前の彼の立ち位置です。

「主がかつて彼によってアラムに勝利を得させ、、」

とあるように イスラエルの敵国と言っても良いアラムの将軍にも恵みを与え 目を注がれておられる主である神様 
そしてナアマンの信仰 彼は信仰が無い訳でもないという事
 彼はイスラエルのいち少女の言葉によりアラムの王に許可を得て 手紙と金銀晴着を持って出かけます。 
ただ彼が「こうだろう」という方法やプロセスを通して癒されると思い込んでいた。


それを受け入れられない頑なさを変えたのは彼のしもべの言葉 道徳的には、彼は日頃から僕の意見を聞ける将軍だったからとか、ナアマンの性格的資質に注目するかも知れませんが、私の経験を通して感じるのは、神である聖霊なるお方がまるで私に僕のように仕え、諭し、導いて下さったという事で
人の意見に耳を傾ける所のない私を誰よりも知っているお方は、タイミングを見てねんごろに私の魂に働きかけて下さり、頑なな私の心を何度も揉み解して下さってきた。 

イエスはある日、会堂で預言者イザヤの書を手渡されて読んだ時に、ある箇所で意図的に読むのを止めたために、会堂にいた人々の目がイエスに注がれました。

 「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4:21)

イエスが意図的に読むことをやめた箇所のみことばは私達異邦人に対する復讐の箇所でイザヤ書61章2節には

「主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ」

とありますが、その後半の部分をあえて読まず、神の救いの計画の隠された部分を炙り出します。 イエスは二つの奇蹟エリヤの時代シドンの女に対してなされた恵み、エリシャの時代にツァラアト(以前の訳ではらい病)がきよめられたナアマンへの癒しを取り上げ、イスラエルには多くのやもめがいたにもかかわらず、またイスラエルには多くのツァラアトがいたにもかかわらず、異邦人のやもめとナウマンだけに主の恵みが注がれたことを語ります。

 ナウマンのいやしの出来事は、単に、難病がいやされたということを意味するのではなく、それは副次的な事ともいえる部分で 大切な事は神の救いのドラマにおける隠された戦略を備えた出来事であった事実を見せてくれます。

 現代の私たちは、何処其処で癒しがあったとか、この人の祈りが奇跡を起こしたとか、不治の病から生還したとか聞くとその人に注目したり、その人の信仰を褒め称えたりしがちです(←自分の事です)。

でも本当に大切なのは目を注ぐべきは、その計画を今から2600年以前に施し、2000年前にイエスによって明らかにし、今日も変わらない救いと癒しを神はなさっている事実

 誰かのメッセージを聞く時ついつい 「いいお話でした。」とか 「どこそこがとても良かった」など評価しがちな私ですが 大事なのは「神のことばは相変わらず素晴らしい」とか 「真直ぐ、御ことばを語られて感謝」 毎日彼らは二人でも礼拝をやっているらしいのだけど その為だけでもまた参加させて頂けたらと思えました。

我らの主は相変わらずワンダフルでございます。

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