2014年12月31日水曜日

年の暮れ

 入札したスーチャーのサンバーが落札出来なかったので
この年の瀬に大阪に行くという予定もなくなり
今年を振り返るに相応しい静かな大晦日
窓の外では飽きる事がないのか?と思えるほど白く見える世界を埋め続けている
やまない雨がないように、雪も見たくとも見れなくなる時も来るだろうし
ダイニングテーブルに四国や能登をまわった写真を並べてみる
 この偶像の女神の名を持つバイクは
パッセンジャーシートの家内にすると眠くなる程 快適だったらしいが
スタイルと、バンク角のなさが(それでもクルーザーにしては十分だけど)私には物足りない所でもありましたが
水平対向6気筒の造形と排気音にはいつ乗ってもウットリさせられた。


「はじめにエンジンありき」

それが相応しいと思えるオートバイの一つで、ほんと乗れて感謝。
何処までも伸び続ける様なあのエキゾーストノートを響かせ
沖縄のビーチサイドを走り抜けているだろう。
 私は私で来年は、また新しく古い相棒と楽しみたくって
こうして家の中でぬくぬくとしながらも、
時々ガレージに降りていって眺めてワクワクしている。
見ているだけでもこんな気持ちを与えてくれるバイクはホント久しぶり。
 トヨタクラウンと同じ形式のペリメーターフレームに抱え込まれたエンジンがまたいい
道具としてはこれほど優れていないモノも珍しい(製作途中で止めたの?って思えるほどのデザイン)実用性を無視したような作り
これ程見て、そして乗って面白いものもなかなかない
 多くの知恵者が相談し合って練りに練って作り上げたものは、大体において完成度が高く、価格相応な(時にはそれ以上)性能を約束してくれるが
一人の好き者が自分の理想と感性で、思いつくまま形にしたものは、それ自体で所有した者に

「どうよ、俺のバイクは!」

と、熱く語りかけてくるようで、バイク好きなら、乗ってみてヘルメットの中で思わずニヤケテしまう事を保証してしまう程ストレートな思いが伝わってくる(まあこれほど好き嫌いがはっきり分かれるバイクも珍しいけど、、)。
ノストラダムスの大予言のあの有名な年に一年だけしか生産されなかったこのモデル
さあ 2015年は 何処に出かけようか、何を見ようか、何を食べようか。
 それにしても、今年の年の暮れはなんだかじんわりと感慨深いものがある
数日前、車で移動中に助手席の家内が

「なんか一番いい年だったよね」

ってことばがその通り

誰それと濃厚な時間を過ごしたとか(そうなんだけど、、)
はかり知れない恵みを受けたとか(そうなんだけど、、)
新しい御言葉の真理を頂いたとか(そうなんだけど、、)
特別な体験に預かったとか(それもそうなんだけど、、)

何と言っても今年ほど主との付き合いをさせて頂いた一年は素晴らしいです(←実際は、私が彼をないがしろにして来ただけなのだが)。
 昨夜、嬉しいニュースもきかせてもらった。
電話してくれてありがとう、そして本当におめでとう

わが主イエスよ、今年もありがとう そして来年もよろしく
あー、楽しみだ

2014年12月27日土曜日

冬の日

 素晴らしい天気
朝オートミールのパンに信濃町で採れたハックルベリーを食べてからゲレンデに
今年はまっちゃんにもらった板で滑る事になる、これ具合いいです。
クリスマス前に積もった分に、新雪10cmほど積もった絶好のコンディション
今年は、あんまりウインタースポーツの気分が出てなかったんだけど
ちょっと重い腰をあげて準備してゲレンデに向かい始めるとワクワク感が出てくるから面白い事
滑ってみると、楽しい、楽しいからまた滑る
技術やスピードとか考えないと言えば嘘になるけど
人間って素晴らしいなーって思いながら滑っていた。
そして、そんな人を造るって、ホントにスゴイ

要は霊的な事も次元はまったく違うが何故か似ている所もあって
スキーの技術や、物理的な作用や、バランス等云々ではなく
板を付けて 下りてみること
実際に体感してみる事以上の ものはないというのが私の持論

もちろん 続けるのも、止めるのも自由だけど
一度の人生なら やってみるって事も 主のゆるしがあるなら
日頃から感謝知らずな私でも 神への感謝に簡単につながる事ウケあい

べつにこれはスキーやボードではなくても
カラオケでも、クラフトでも 料理でも 似た体験は可能だと思います。


50を過ぎでもまだ、上達できる(緩やかでも)
ウレシイ!

昨晩は先輩から頂いたカニを酢飯で堪能
冬はいい、
冬もいい、


 御馳走様でした~おいしかったですよー

2014年12月18日木曜日

大荒れの北日本

「大雪」だとか「異常気象」ということばを使うのは好きじゃないけど
今年の12月はウエルカムスノー(?)という程良く降り続いた。
予報では今日も大荒れで、吹雪の中の葬儀も覚悟していたのだけど
倒木に迂回を余儀なくされながら着いた丘の上は、風も止み、青空が見え始めていた。
その後、天気はどんどん良くなり、寒さを感じないまま、全てがしめやかに行われた。


 ちょっ久しぶりの懐かしい方々とも出会う事も出来て
次にまた会う機会ともなる予感もありました。
なんだか全てが感謝でした。
出棺の挨拶は

「See you again じゃあ また」

なんか清々しい イイネ!

2014年12月16日火曜日

ロブは今日も生きて語っています。

ロブは今日も生きて語っています。
彼とはなんか不思議とあうんだよね~
イエスの血を分けた兄弟だからあたりまえだけどね
ロブが癌による余命宣告をされてから、癒されるまでの信仰の証し要旨
 
8つのポイント

① 私なぜ生きたいのか?!を考えました。 その理由が緩いと力が弱いのです。
500年前の日本に起こった、福音の「風」をもう一度今の日本に見たい。家族・友人・知人が神様との関係を持ち、救われるその「風」を見たい。そのために「命」が必要です!という強い生きる理由を神様の前に訴えました。

② 赦すことを示されました。マタイ5:24
20年の間、意見が合わずに、対立傾向にあった人と和解に努めました。そして礼拝に来てもらい、和解と癒しの祈りをして貰いました。

③ ストレスを手放すためのイメージトレーニングをしました
日本人が好き、人が好き、ゆえにカウンセリング、悩みの相談がどんどん増え、気が付くと自分自身がストレスに蝕まれていました。その時、自分が神様の御手の中で憩う「赤ん坊」になったイメージを持ち、リラックスしてストレスから離れる、手放すことをしました。

④ 医者の言葉より、神様の言葉を信じよう
医者の言葉に説得力があってはじめは、素直に耳を傾けていましたが、「回復は不可能」の言葉に反発を覚え、神様には不可能はない、最後の一呼吸まで神様を信頼する決心をしました。マタイ17:20

⑤ 信仰のある人に祈ってもらおう
「人生には初めがあって、終わりがある~」など、否定的なことを言う人も現れました。そのような発言を耳に留めないように、即、離れました。人間関係の整理が必要です

➅ 浸透する祈り マタイ9:20
祈りの仕方が変わりました。今までは、あっさりとした祈りでした。自分は早起きするタイプではありませんでしたが、「余命宣告」以来、5時には起きて、自分自身に手を当て、長血の女が癒されたシーンをイメージし、じっくりと「熟成の祈り」をしました。

➆ 6月の「余命宣告」から教会や周辺の人々は、ロブの癌という病気がすべてとなりました。ひたすら「ロブのために祈る」時が続きました。しかし7月15日「十分祈られましたので、私のためだけに祈る時は終了し、他の人のために祈ってください」と宣言しました。そのときから空気が変わりました。病弱な印象のロブから以前の人を助ける器のロブの印象に戻っていました(田畑感想)

病が治らないのは、知らず知らずに病がその人の人生の一部となっている場合があります。また本当は治ると都合が悪い・・・ような意識が働くと奇跡も起こりません、点検の必要があります。

⑧ 医者、病院への認識が変わりました。
医療機関はあくまでも、「病気を測る道具」です。そして癒された後、私たちはこの「癒し」を管理する必要があります。もとの生活に戻ると再発します。

最後に、私は GERSON博士の提唱する「毒を排出し栄養を入れる」という
方法を取り入れました。肝臓による解毒作用により適切なからだの状態に戻していく方法です。

野菜中心、砂糖・塩分を摂らない、神様が造ったものを食べるすなわち人工的なものは食べない。

あるとき、某ラーメン店(もっこすではありません)で目撃してしまいました。スプーン大盛りの砂糖にエンジンオイルのような油を入れて美味しくしている様子を。外食には気をつけましょう。神様が造られたものを食べましょう

以上の8つのポイントは、風邪が癒されますように、といった程度の癒しではなく、生死にかかわる、切羽詰まったときにとった、ロブの信仰の行動の証しでした。

2014年12月14日日曜日

ただ天から降りてくるもの

戸隠らしい雪景色になりました。
朝から除雪いい汗かきました。シャワーを浴びてとりあえず投票に、、
 聖書は何処の箇所でもそうだけど
人生哲学や知識や教養道徳、ましてや宗教的な事ではなく
人が本当に知るべき事は、自分には無理ってことなんだろう
最近目を通している伝道者の書

1:2 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
 1:8 すべての事はものうい。
人は語ることさえできない。
目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。

1:14 私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、
なんと、すべてがむなしいことよ。
風を追うようなものだ。
1:15 曲がっているものを、まっすぐにはできない。
なくなっているものを、数えることはできない。
 3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。
しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。

3:19 人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。
これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。
人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。
3:20 みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。
3:21 だれが知っているだろうか。
人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。

6:7 人の労苦はみな、自分の口のためである。
しかし、その食欲は決して満たされない。
6:8 知恵ある者は、愚かな者より何がまさっていよう。
人々の前での生き方を知っている貧しい人も、何がまさっていよう。
 7:13 神のみわざに目を留めよ。
神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。

7:16 あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。
なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。
7:17 悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。
自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。

7:29 私が見いだした次の事だけに目を留めよ。
神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。

8:17 すべては神のみわざであることがわかった。
人は日の下で行なわれるみわざを見きわめることはできない。
人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。
知恵ある者が知っていると思っても、見きわめることはできない。

12:8 空の空。伝道者は言う。すべては空。


結局は全てが聞かされていることだけど
何処かに行くとか行かないとか、誰に会うとか、メッセージを聞くとかではなく
ただ神こそ全てであって、主はそうしようと選ばれた僕にご自身の霊を送りそれを知らせる事を良しとされる。
誠にイエスは素晴らしい救いの主です。

2014年11月24日月曜日

Hakuba

 白馬までの道は、かろうじて1本残っていて、所々通行止めで戻りながらも
行ってまいりました。
薪は雪が積も前に何とか移動(だけ)出来ました。


今回の地震の震源地は殆んど白馬駅あたりですが、揺れ自体は戸隠よりこちらの方が少なかったようです。
冷蔵庫や自販機も移動してなく、装飾やお皿もあまり割れておりませんでした。
ただ直下ですから前振はちゃんと感じられたそうで、(1.2日前に2回)

「揺れ自体は大したことはなかったけど、震源地が白馬駅って聞いて、アレレ、この辺は珍しいなーって思ってはいたんだよね~」

ってお向かいのペンションのオーナーさん
東日本大震災の時もそうだったから、神様はサインをくれるんだなって思いました(ちなみに携帯の地震警報はほぼ直下の場合全く意味をなしませんでした)。

「そうしたサインがあるなら、動物達は人間より気づくハズだよね」って話したら息子が

「動物は、何も持っていないから移動するにも準備もいらないし、感覚の赴くままだからじゃないの?」

そうかも知れない。まっちゃんもよく

「何かを所有するって事は自分が弱くなるってことだから」

って言ってる。

 白馬の壁は何か所かがクラックが入りましたが、(個人的には)これくらいで済んで良かったって感じです。
流石10tの薪の移動は、、明日は筋肉痛、温泉にいけるといいなー

2014年10月30日木曜日

近況

 さてさて、白馬で見させて頂いているクリスチャンの事をどう説明すればいいのだろう
とにかく今まで会った事がないか、会っても、こちらがスルーしてきたかもしれない方々だろう
ただし、彼らの周りで、主が救いの働きを活発になさっている事は間違いなく

「えっ そんなに簡単に(まあ、福音は単純なものだけど)」

って思うほど、シンプルで素直な流れの起きる
例えば彼らが、ある人と合いその人が救われる、するとお風呂でも何所でも水を張って洗礼を
そして次の日、その人が知り合いに伝えて、信じて一日目の人が洗礼を施す
そんな流れで、ぷよぷよの様にばたばたと5連鎖ほど人々が救われていく

 彼らの不思議な特徴がある。
聖書の話をほとんどしない、かといって、聖書の話を知らないのではない
こうゆう、恵みがあったとか、今まで知らなかったこんな発見があったという話もない

彼らもバイブルスタディをしているそうだから、一体どうゆう進み具合でやっているのだろうと
一度一緒にさせて頂きたいと思っている。

とにかく祈る、祈っていることは、間違いない
彼らは、押し並べて良く祈ります。
祈ることを躊躇しない、ある意味では深く考えないでその前に祈るという感じがするほど
 実際、彼らと接していると聖書に知識を積み上げていく事の意味を考える。

もちろん、聖書は神のことば、主の考え方や意志が、文字として書かれてある。
だけど、それを喜々として知恵や知識、能力を用いて知る、知っていく、解き明かす事は
、せっかく足場を積み上げていても実際登っていない、使っていない、
とりあえず、その高さを誇っている様な

聖書の知識や真理は、脳と言う古い創造を経由している限り、知識の木の実の愉悦には浸れても
魂の救いにはほとんど関与していない様にさえ感じて来ている。

何故なら、自分を実際に動かしたり、変える程の神様からのアクションがある時には、経験的には
上からことばが降りてくるからで、それには聖書の知識や解き明かしは殆んど高慢や分裂の元や邪魔にこそなれ、役には立たない気がする。(これは私個人の今までの事で、ボンヤリとした事象で確信というモノではありませんが)

鳥肌が立つような、解き明かし、新しい御言葉の真理、誰も話した事や聞いた事のない聖書メッセージ、それらがワラのようなモノでしかないとはいえないけど、、

どんな高性能で使えてこその機能であって聖書の知識や真理も
使わない事には、何の意味があるだろうか。

2014年10月24日金曜日

本日は晴天なり

今日の降水確率は全ての時間帯で0%
ただ最高気温は15度に届く程度
一日を通して”凛”とした空気が長野らしい。

今年の紅葉は、長野に来てからおそらく最低の色合いだけど
ガッカリしていません。
だってどんなに美しい年だって、そもそもソレを見なければ奇麗も綺麗じゃないも関係ありませんから
あまり美しくない今年だってこの程度には綺麗だから、その分見る機会を増やしてもらって
秋全体としてはいつも以上に、豊かな紅葉を楽しんでいます(?)。

聖書の知識や真理も何か似ている様にも思えて来ている。
どんなにスゴイ事を知ったとしても、使わない事には、何の意味があるだろう。

さて、よろしければ今朝白馬までに撮った写真をご覧ください。

  どちらかと言えば聖書のメッセージを聞いたりするのは、私は遠慮したくなっているし
御言葉であっても、いろんな事を調べたり、聞いたり、読んだり、熱中する事の空しさを感じます。

結局、新しい事などなく、全ては以前からあったことでしかない
とにかく私は祈って来ませんでした。
ある意味それは、主に対する信頼の故に祈りませんでした。


しかし、今は些細な事でも祈らさせて頂こうと思っています。


2014年10月15日水曜日

架け橋

台風一過で峠からは空に架かる虹
地上では、吹き抜けの塗装の為足場を架けての作業

Backcountry Lodge Hakubaのオーナーさんご夫妻には本当に多くの気さくで前向きな友人が沢山いらっしゃるようで、途切れる事がないほど、国内だけに留まらず手伝いに来て下さっている。

彼らは、ほとんど教会(キリスト教で言う所の)と言う名の人のグループに所属してない
どちらかと言うと、日曜礼拝に出席していない私などは、肩身が狭い訳でもないのだが

「どちらで礼拝していらっしゃるんですか?」

とか聞かれると、、
他の方のつまずきにもなりたくないし、ちょっと気を使って来ていたけど
そんな事は、彼らにとってごく自然でスタンダードな事のよう

後、更に気を使うのは「主の声」の事で
実は私個人的には、主の声が大好きなだけではなく(嫌いなクリスチャンもいないとおもうけど、、)
神の声をちゃんと聞いているクリスチャンをとってもイイなーと思っている。

ただ、流石にクリスチャン同士でも

「この人、怪しいだけじゃなく、オカシイ(?)」

と、勘違いされるかも知れないので、話せる相手とだけにしてきていたけど
10日から滋賀から来ていた方曰く

「どちらかと言えば、私の周りでは、それが普通だから、、、」

的に話されていて、クリスチャンってだけでも少なく
更にその中でも、私の様なクリスチャンは稀と感じていただけに

『そうなのー。実は、地球人の姿をした宇宙人がずっと前から以外に大勢いる(いた)っていう
SF映画的なアレと同じ感じ?』


まあ、宇宙人は未確認だけど確かに
ちょっと珍しい車を買ってみたら、意外と多く走っていたとか、
妊娠してみたら(もちろん私ではありませんが)沢山妊婦さんを見かける様になったり
ベビーカーを押していると、同じ様な方が沢山いるって事に気づくにも似てるけど
私がやっとそれに気づいてくれたから、私の父は、次のステージに相応しい人々を送って出あわせて下さっているという事が正解だと感じる

ただし、注意しないといけないのは、
神の声を聞いているという感覚に浸っているだけの様ないわゆる霊感の鋭い人とか
違う声を、そう思い込んで信じてしまう人とかもいるかも知れません(いろんな人がいるからね)

ただ、個人的には、子供の頃父や母の声を聞いて

「アレッ?、今のお父さんの呼び声だったかな、それとも近所のおじさん?」

という、迷いが無かったのと同じくらい(それ以上)
その声を聞いた時には、何だろあの感じ、甘ーいような、ただ嬉しくなるような
ずっーっと前から聞いてきた、深い所で覚えている、遠い様な耳元で囁くような何処から響いてくるのかわからない様な、でも内側で語られている様なあの声
それを、聞き間違える事は、ない

また、あの声を聞きたい
またあの声にだけ浸っていたい
そしてこの地上で聞く最後の声は

「ここに、登れ」

その声があったなら、全てのモノは地上に残して永遠へと向かう
いろんな終末のシュチェーションが整ってきているけど
それらは、私たちが天に昇る時が近づいて来ている足音でもあるのだから
頭で考えると複雑な気分にもなるけど、私の霊は約束の時が針が進んでいるのを
確認して心踊らせている

2014年10月6日月曜日

終わり始まり

 10月4日は台風の影響もあって全国的にも、(ちょっと畏ろしく思える程の)美しい夕日だったようです。戸隠の我が家からも、刻々と変化する色合いを見させて頂きました。

生まれるという事、結婚をするという事、そして死ぬという事
どれも、スゴイなーって最近特に感心するけど、

「死ぬ日は 生まれる日に優る」

ってあるからだけじゃなく、そう思えるようになってきている。
朝焼けより夕焼けが、赤いのはそんな事も関係するのかな
確かに聖書では陽が沈むと、新しい一日のはじまりだけど
古い今日を生きてきた私たちにとっては、やっぱり終わりに見える。

まあ、ぐだぐだ書かないで、その日の画像をどうぞ





 これは、ピーク近くの変化をズームして撮りました。
カメラの技術は無いので、オートです。

今は、風邪の影響で声はガラガラですが、良くなったらカラオケでもまた行って
”かりゆし”の おわりはじまり でも歌おう。