長野には廃村になった村がいくつかある。
開拓時代の村がそのままなので、トレッキングがてらのちょっとした観光スポットのようになっているところもある。
気がつく事は、そののどかな、いえなみに命の気配が無い寂しさ。
家があるのに住む人が、いない。
ツバメの巣はあるのに、ツバメは飛んでない。
スズメやツバメは人がいないところにはすまないという。
私も戸隠のここに家をたてたとき、スズメやツバメがいなくて野鳥ばかりだった。
何年かたってからスズメが来るようになった。
ツバメがガレージに来たときもある。
写真は寝室から見えた(寝室を見ている)スズメです。
町のスズメとは違い、チュンチュンとは鳴かない。
子ネズミのようにチューともチィーとも鳴く種類だ。名前は忘れてたが、んなことはどうでも良い。
来てくれてありがとう。田舎モノの私にはスズメが似合うと思う。
昨日アップしたセキレイは地面からわずか50cm程の所でつまれた薪の中ほどで蛇やネズミがすぐ来そうな所になぜ、産んだのだろうと思っていたのですが、玄関のからも50cm程で駐車場に面した人の出入りの多いところだからこそかも知れない。
先日の薬師寺や大きな教会堂を見るとき、建物のすごさや、それを作った事、守ってきた人たちの事も思うが、どこか、山奥の廃村と共通する寂しさを感じる。
そこには、本当のあるじが、いないからだ。
どんなに、狭く、みすぼらしくても、主がいる所に私も共にいたい。
3月に風のささやきのtakakoさんに「住む方、使う方がいない家は、生まれたままの私を見るようです。
今は心に聖霊という住んでくださる方がいるので、ホッとしています。
ボロ ボロだったのに良くしていただき良い方に住んでもらって嬉しいです。」
このように書いたことがあったのですが、セキレイも同じなのかもしれない。
不安要素は沢山あるが、あなたを見守っている方はいる。
電気屋さんのおかげで色々調べさせてもらいました。
返信削除日本には雀と入内(にゅうない)雀がいるそうです。この入内雀であろうと思われます。
国内には二種類の雀がいる事、小笠原にはいない事、沖縄の大東島にはいなかったのに、人が住み始めると移住して来た事、人の居ない所には住まない事、ある程度の規模の人家(20軒位だったかな?)でないと住まない事を知る事が出来ました。
<どんなに、狭く、みすぼらしくても、主がいる所に私も共にいたい。>アーメンです。
返信削除こちらの農村でも離農して廃屋になり、傾き倒れそうになった
納屋や牛舎を目にすることが多いです。人影も無くです。。
人がいないことは死んでいるのと同じなのですね。いのちがいのちを呼び合い共に生きていることを感じます。
最近我が家の庭にもすずめが顔を見せてくれます。
このすずめを見守っているお方が私達をも見守っていてくださるので安心してゆったり、のんびり暮らすことができます。
ただ主に感謝するだけで…すべてのことに感謝せよ。ですね。
エシュコルさんへ
返信削除そうです。入内雀でした。
調べていただきありがとうございました。
また、補足も感謝です。
イスラエルで最も価値の小さな生き物としての雀だったのですが。
なかなかどうしてスズメやるもんですよね。
”すべてのことに感謝せよ”
返信削除アーメンです。
そのようでありたいです。
おそれるな。とか、たじろぐな。
とあるのは、基本的に私たちはそのような者であるからではないでしょうか。
全く恐れがない人にそんなことは語る必要すらないですからね。だからこそ私は弱くても主はそうではない。
スズメ一羽でも主は見ていてくださる。
ましてや、人は、と言う語り尽くされた事こそ、
そこに平安がある感謝です。