このベーコンは、ミズーリで食べた自家製を思い出させてくれて好きです。
年を重ねてきてだい

ぶ脂っこい食事が減ってきたとはいえ未だ”肉”はご馳走だ。
野菜って「なんでこんなに美味しいの~」と思っても食卓に何日も動物性タンパク質が無いと体が”肉” を食べたがる欲求が増してくる。
なぜ”肉”はうまいのか。
聖書の中では人は、木になる実や、緑の野菜等を食べて生き続けていけるものとして神が造られたとある。
変化があったのはノアの洪水以後で、大きな環境の変化により植物だけ食べるだけでは十分な栄養を取れなくなったからなどという声もあるが。
私は人は肉を食べなくとも生きていけると思う。
ベジタリアンの友人もいる。
多くの肉を食べる人たちより彼らの方が健康的だ。
では何故あなたは肉を食べるのか?と聞かれたら「うまい」「私は食べたい」いう欲求でしかないような気がする。「くったー」という感覚が欲しいのだ。
世界食料危機が叫ばれる今日、植物を食べることを推進しようとする動きもある。
その先には一つだけ危険な思想を生み出す可能性を持つ。
それは「神はまちがったのだ」ということだ。
もちろん神は間違えない、では何故神は肉を食べることを許されたのか。
目には目を、歯には歯をとあるように
命には命で贖うしかない、神の考えがある。それは人にとっても的はずれではない。
ニンジンを切るときに、私たちはどれほどの罪悪感を覚えるだろうか。
でも生きた動物を切るときは、どんな気持ちになるだろうか。
私は家で飼っていたニワトリ程度しか捌いた事がない。
人はどの様な事であっても繰り返すとなれるものだが、それでもネギは逃げないし叫ばない暴れることも血を流すこともない。中には殺人鬼と呼ばれるそれらに快を持つ人もいるかも知れないが、それとて刺激が強いからこそで植物では刺激の強いタマネギを切ることに快感を覚えることは無い。
コミニオン(聖餐式)という儀式がある。
そこでは酵母で膨らませてない麦をつぶし焼いたパンを食べ葡萄酒を飲む
それは一粒の麦として来られたイエスの体と血だという。
肉を食べない理由には様々あるインド人は牛が聖なるものだから食べなかったし、日本人は4つ足で汚れたものだから食べなかった。大事な事は肉が野菜がという問題ではなく
人が救われる為にはイエスの体が捧げられる必要があったという事。
私的には「油ののった肉を食べたい」そう思うとき霊的には「油注がれたイエスを食べたい」なのだ。そんなことも考えながら食べるベーコンは一層有り難い。
追記です。昨日のブログでアザミにクモいるんだよと拡大してみせたら家内は爆笑でした。
「顔無し?と思ったら志村さんだったのね」