2011年1月14日金曜日

鏡池


戸隠連邦を写し出す鏡池の事をいつか書こうと思っていたのだが、
Sさんとのコメントの中で書きたかった事が大体まとまってきたので、以下転載させていただきます。

*主題は
「私達は 鏡のように主の栄光を映す・・」
(Ⅱコリント3の18)です。

*私
私たちは、長野市街に行くとき渓谷を下ります。
特に秋から冬の初めが綺麗なのですが(冬は凍結)湖面に逆さに写り込む景色が年を重ねるほどに綺麗に感じています。
大抵は家内が横にいるので「水面に綺麗な景色が見えるのは、その風景が綺麗だからで、水とはあまり関係ない。でも綺麗な水の方がきれいに映るし波立つっていたら綺麗な物もうつらない。」と、話しながら
ちっぽけな水たまり程の自分にキリストをどれだけ移せるだろうかと考えます。
何度でも再確認が私たちには必要なので、様々な事柄を通して飽きる事無く啓示してくださる主に感謝です。

*Sさん
鏡や水面が写すものは「そのもの」ではない
としても 光はそのものですよね。

パウロは後半で
「そのもの」によって
私達が創り変えられる、というような
ことを言っているのかも知れません。

*私
いくら鮮明にキリストを写し出したとしても、鏡や湖面はキリストではない。

しかし、確かに光が湖面を見る者の目に入るとき、見る者の目にはキリストが映し出される。その光はまぎれもなく彼から出たもの。
生まれたままの時の私はいくら求めても調べ上げても覆いがかかっていてイエスを見ることはありませんでした。またキリスト者となってからも自ら主との間に覆いをかけた事もあります。ですからキリスト者であるのに闇の中を歩み続けた時もあります。
私たちは神にはなれないが、神は男と女に人を造られた様に、形は違っていても、主の霊によって私たちはイエスと同じ像に造りかえられていくので、一見この肉的には空しい様に見える奉仕が失望に終わることが無い事を見る。

キリスト者は、ただ湖面の様に表面だけではなく、主の憐みによってイエスの様にさせていただける。
ここにキリスト者の希望がある。
その希望は失望に終わることが無い。

*Sさん
主と私達は一つである。
しかし当然、区別はある。

神と人には
当たり前のことだが
厳然たる区別がある。
しかし、私達は彼と一つである。

何故なら神が人であるイエス・キリスト
によって
その不思議を達成されたから。

聖書はそのように言っていると
信じております。

画像はあえて逆さにしてあります。

4 件のコメント:

  1. 鏡池って戸隠だったんですね。いつも観光目的ではないので、周辺に何があるのか調べもせず、興味もなくお邪魔しておりましたが、鏡池は行ってみたいです。

    というのも、友人のギタリストに白柳淳君というのがおりまして、彼が鏡池をテーマに曲を作っていたのです。それを思い出しました。

    ホントに凄いです。
    パウロがⅠコリント13:12でイメージしている鏡は、もっと映りの悪いものを言っているのでしょうね。

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  2. 一緒に行ったスキー場から車なら5分くらいです。
    冬は時々家内とクロカンで行って凍りついた湖上を歩いてます。今度行きましょうか。どうせ家から10分ですし。
    それにしてもここまで綺麗にイエスを写し出せるとしたならすごいと思いませんか。
    大抵は、日が昇るときと、日が沈む時に風が止まり(いわゆる凪)鏡の様になるのも意味深いです。
    神が人となられた降臨と十字架の時をキリスト者の時と重ねて生きる時クリスチャン(小さいキリスト)になるのです。

    追記、一応出羽にも鏡池ってあります。有名なのは戸隠ですが、、。

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  3. 次回、是非よろしくお願い致します。
    例の豪雪の村にも行きたいし。
    又ひとつ、戸隠でお会いする楽しみが増えました。

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  4. 豪雪と温泉は結構合いますよ。
    なんでだか冬の方が温泉や温水プール、得した気分になります。
    またお願いします。

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