2011年1月27日木曜日

モノマネと本物

テレマークターンの仕方を習ってみて思ったことは、習うってすごい事だという事(言葉がダブったが)
教わる方も大変だが、教える方は、もっと大変だ。
私が教官なら「なにやってんだ○○」とか「違うだろなんどいったらわかるんだよ○○」などと罵声を浴びせかけているかもしれない。
そして、習うには自分で犠牲を払って習ったほうが効果があるだろうとも思った。
高い金を払うからには、何としてもその見返り位は得たいと思うはずだし、教える方もプロになる。
学校教育が無償化され義務になっていくほどに空洞化も進んでいく部分がある。
事実「俺はあんたに教えてくださいと頼んだ事は無い」と思ってきたし、こんな人間になりたくはないと思える教師もいた。
全てが金で置き換えることには反対だがこの人ならと思える優秀な教師のクラスに入るなら犠牲は惜しくないだろう。
世界中でも大体そうだがそこに行って誰かに何かを習いたいかどうかは入る人が決める(入れるかは別として)
そして努力してそれをマスターするだろう。
習う事はすごい。でもそれ以上の事もある。

イスラエルでは自分が誰を師とするかは弟子が選んでいたという、しかし、キリストは私があなた方を選んだのだという。
そしてその弟子となるにはお金を払う事も無ければ学校に行って資格を取る必要もない。
全ての犠牲はイエスが支払ってくれたのだ。「誰でも先生の様になれたらそれで十分です」と言ったのもキリストだがなりたくてなれるものではない。
モノマネで誰かが例えばジャイアント馬場の真似をしているのを見ると自分でも出来そうな気がする。
でもそれはモノマネのモノマネでしかない。クリスチャンにとってキリストは目標ではないし、最終到達ポイントでもない。
こんな時イエス様ならどうなさるだろうかと考える事はそもそも動機からして違っていると思う。
その様な事は自分を目先の悪から少し遠ざける事にはなるかもしれないが、本物にはなれない。
彼の様になると言う事は、彼しかできない事だからこそ彼は弟子を彼自身で選んだともいえる。
彼をして、彼の選んだものは彼のように造りかえる事が彼には出来るのである。
そこには私の労苦や努力は何も加える所が無い。
キリストは努力の結晶ではなく、恵みの賜物だから。

2 件のコメント:

  1. ジャイアント馬場のたとえ、よくわかります。

    信仰生活や祈りの秘訣などといったhow toものは、偽物らしさのバイブルのような気がします。

    似て非なるものは、本物にとっては名誉の毀損にもあたる一番迷惑な存在です。

    だから、私は全霊で偽物を嫌悪します。

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  2. キリスト教と言われる団体の中では
    「先生」と呼ばれる人物がキリストとの間にあって
    イエスを見えにくくさせています。
    人間的に魅力があればあるほどそこに立ちはだかる可能性はデカくなりますし、つい置いてしまいがちです。
    見える存在を真似る方が楽だし、評価もわかりやすいのでその「先生」に褒められるように行動しがちになります。
    かくして聖書の理解も「先生はこう言っていました。」などとなって。小さなキリストならいいのですが、小さな先生の集まりになっていきます。
    その方が集まりとしては一体感があったり、「先生」も自分と同じ考えの方がどちらかといえば気分も良いものです。

    こんな事を書けるのも私にもそんな時期があったからで思い出すのも情けないです。
    このブログは私の失敗と主の成功が書かせてくれています。

    追伸、直人さんのページにコメントありがとうございました。昨日コメント欄からスパムを見つけて掲載し直しました。遅くなりすみませんでした。

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