2010年8月2日月曜日

友人のガレージに新しく買ったという古いGT750を見に行って蜂に刺される。
アシナガバチだからとバカにしていたが、
帰ってきて少し夏風邪になったような感じで風邪なのかショックなのかどっち?
おでこはほんのり赤くなっていたがまあ、これくらいですんでよかった。

今年は薪の集まりが良い、既に春までの分は有るだろうと思ってる。
借家時代からすれば考えられない豊かさ、あの時、薪ほしかったな~。
薪を燃やし続けていても風呂を沸かし頭を洗うときシャンプーが凍っていたくらいの寒さだった。。
もう少し持ってこないといけない木もお願いされてあるが、置き場所がもう一杯だ。
聖書にある様に、蔵を建て直してまで魂を太らせたくない。正直気分的にはそろそろ燃やし始めたいくらいたまってきている。
ただこの薪の要らない時期は短いのでそれも出来るだけ味わいたい。
私の肉から見て良いときも悪いときも普通の当たり前の生活の中で”救い”を味わいたい

12 件のコメント:

  1. 「普通」や「当たり前」が一番大事なんだなとしみじみ思う今日この頃です。

    「特別なこと」や「表向きの催し」がどこの世界にも頻繁に組まれて、その為に日常が犠牲にされている感じがします。

    電気屋さんの暮らしぶりは、優雅でお洒落ですね。

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  2. 私の実家は、20年ほど前建て替えるまで、五右衛門風呂でした。子どもの頃、風呂焚きは手伝いの一つでした。おかげさまで、火遊びをしたいなど、一度も思いませんでしたね。

    今は灯油でお風呂を沸かし、トイレも水洗になりました。
    実家は、接続していませんが、ネット環境も光になっているようです。ずいぶん変わった気もしますが、十分田舎で、最近限界集落の危機もあります。

    こんな片田舎に住んでいた私が、選ばれて主を知った、という事実に、すごいな~と実家に帰るたびに思います。

    私も、当たり前の生活の中で”救い”を味わいたいです。
    今日も、普通の当たり前の一日を、濃厚に味わいます。

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  3. saltさんのコメントや、
    >私の肉から見て良いときも悪いときも普通の当たり前の生活の中で”救い”を味わいたい

    という電気屋さんの言葉にとても共感します。
    日常を犠牲にしたイベントを繰り返すよりも、日常の質を静かに向上させることを願います。

    詩篇131:1の心境です。

    今日は、子供たちが新学期に使う運動靴を買いに行き、1年で足のサイズがずいぶん大きくなったことに、驚き呆れました。(笑)
    そんなことに幸せを感じます。

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  4. saltさん銀じ朗さん
    コメントありがとうございます。

    ブログを通しての交わりもイイのもですよね。
    実際会っての交わりも期待しています。

    最近友人のまっちゃんは五右衛門風呂構想あるみたいな、、、。この時代からこそ新しい

    まさに温故知新ですね。

    「田舎に住んでいた私が、選ばれて主を知った」
    アーメンです。
    主が求めておられるのは志願兵ではなく徴収兵だとお聞きしました。その言葉、実感しております。
    「なんでおれやねん」と言いたくもない時もありましたが、召しだされるってまな板の上のアレですかね。

    さらに聞いた言葉を付け足すなら
    「主の軍は、現在志願兵によって甚大な損害をこうむっている」わかるなー。

    かつては、私もその先頭に勝手に旗を振っていて敵に位置を知らせたり、主の計画をぶち壊しにしていたものです。はははは、(わらいごとではない!)

    ばってんそげなもんも使いなさる主はすごか方でごあす。(なぜか薩摩言葉?まあ、使う前に色々ありますが、、、。)

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  5. 平凡と言われる日常がこれほどありがたいと常々感謝できる気持ちと言うのは、相当意識が高い所にないと難しいとかんじました。

    それには、ほとんどと言ってよいほど「苦」を味わう事によってしか意識できない気が致します。

    この相対的な関係で今目に見える我々の世界は構成されていてるのが、ある意味上記の事と関係あるようなのではと思えてなりません。

    なので神さんは白と黒、善と悪を存在させているのではとも思うのです。 サタンが堕天使と言われたりしてますが、あのひとつの意味に「一番神さんを愛した」とも言われてみたり、それは愛の裏側は激しい憎しみ憎悪・・・などなど・・・実際はどうか知りませんがサタンさんに聞かないとわかりませんが(^^ゞ

    でもまぁ、そういった我々の知りえる範囲で模索し感じる事で伝えてきている事も沢山ありますから、その上で実際に神さんはサタンをやっつけて消滅させないし、「サタンよわしんところへくるんじゃねぇー!」なんて追い払ったりしないで、それどころか話までして平気な顔しているし、(えらんくちょくちょく神さんの所訪問するし)あまりに「のどか」です。

    その下界(と言うのか)にいる我々がとにかく翻弄されまくりですね(^^ゞ まぁ仕方ないですかねぇ、罪を抱えまくる我々は「無知」だからですね。彼らの真の関係がまだまだわからない。

    今を感謝する、その実感を味わうと言う事から、そんな神さんとサタンとの関係などが面白く、ただただ悪者とされているサタンですが、この世界を構成するなかでほぼ絶対いなくてはいけないとされる存在でもあると感じるのでした。

    まだ、今の我々ではあまりに幼いので赤ちゃんですから、彼らの真の関係は分かりえる範囲での幼稚な思考でしか捉えられていないかもしれませんです。

    って・・・何が言いたいのか支離滅裂になりましたが、黒があるから白を強く感じ、闇があるから光を求められる構造になっているこの世界をちょっと言いたかったようです・・・(^▽^;)

    薪・・・そちらでは無いと大変ですねぇ、シャンプーが凍るとはすごいです。 でも寒い所は私は大好きです(^^)v 生きている実感がすごくするのですねぇ、上記の事でより一層それを感じ感謝できるので大好きです。

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  6. はちこさん
    分かち合いを、ありがとうございます。
    「日常を犠牲にしたイベントを繰り返すよりも、」
    アーメンです。

    詩篇131示していただき感謝です。

    神のなさることは静かで美しいものです。
    毎日の様にみている子供たちだからこそ
    その静かな成長が見えにくいものですね。
    去年はいていた靴は変わらないのですが、
    その靴が小さくなることにより知る、
    子供たちの成長に幸せを感じられることがいいですね。

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  7. ヒゲさんどうも

    なるほど難しいことは良くわかりませんが、
    戸隠は寒さが厳しいからこそ生きていく実感や春を恋い慕う強い思い、
    そしてその後の夏の暑さの感謝が関係性を持って
    ワンセットに収まっている事は事実だと思います。
    これは信仰生活とも関わってくる部分ですね。

    地上の関係性と天上の関係性も面白いです。
    サタンが神様とどの様ないきさつがあったかは全てを知らないのですが、
    憎しみや悪、罪などは神が与えてくれたよきものの腐った形だと思いますので、そうなのでしょうね。
    神様は何となくいるかもと思っている人は結構いると思いますが、
    悪魔が実際にいると思っている人は多くないように感じてます。
    確かに今の世界構成においてサタンは権利も神から委ねられた人を介してですが、暫定的に与えられていますね。
    知識は人を高ぶらせまる事もありますが、私たちには知恵の言葉、そして主の啓示が私たちには必要ですね。

    「寒い所は私は大好きです(^^)v 」
    いいですねー。
    戸隠来てからですよ冬が一番だと思えるようになったのは、ああー春が待ち遠しい冬は最高!

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  8. はちこさん

    私は末っ子の履けなくなった運動靴をもらいました。これってお下がり?


    ひげMacさん

    福音をサタンとそれに追従する霊たちの企みを破壊する計画と見ると、世界観が少し変わりますね。「敵と服従する者をしずめるために、幼子である人間を選んだ」(詩編8:2)は語っているように思います。

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  9. Saltさん、
    思わず吹き出しました。^^ 
    私は娘たちが着なくなった服や、学校のイベントなどで配られたTシャツで「かっこ悪いからいらない」というものを、譲り受けて着ています。(笑)


    電気屋さん、
    薪を燃やす暖炉はうちにもありますが、うちのは本格的に暖をとるためではなく、ほとんど飾りです。それでも、冬の寒い日に薪が音をたてて燃えるのを見るのはとても良いですね。また、寒い空気の中、外を歩いていると、どこからともなく薪を燃やす香りが漂ってくるのも、私の好きな冬の情景です。

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  10. はちこさんシュールなSaltさんのことば遊び?に反応して頂きありがとうございます。
    何となくですがいつもスタイリッシュな装いをなさっているイメージがあるので、近親感が涌いてきて嬉しいです。

    Saltさん
    リボンさんのお陰で詩篇8章の所を今回もフォーカスさせていただいてた所でした。
    ありがとうございます。

    乳飲み子は乳を慕い求めるもの、(赤ちゃんは時々それも吐き出しますが、、。)そして日々成長するものでもあるので、そのあたりをぼんやりと思い巡らせております。
    あのかたのすることは、突拍子もないことが多いので楽しいのですが、「どげんことでしょうか?わしにはわからんがぜよー」と時々言いたくなります。

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  11. saltさんへ

     詩篇8:2を読んでみました、ありがとうございます。(*^_^*)

     どうも私のは口語訳なので、表現が別になっているようなのです。 前々からこの口語訳とか新共同とか文語とか・・・これらもある意味人の考えで派閥化された感じがあってちょっとぉ~となっているのです。

     最初にもらった聖書が口語だったので、そのままこれにしているのですが・・・・・一番、そのヘブライ語とかそんなの読めないんですけれど、英語の聖書があまりこの辺の言い方とか訳し方で、キリストをおとしめているなど人間が勝手に思っている事をそこまで考えなくていいような感じがしているのでした。

     どれかひとつの統一すればいいのになぁ~と思う今日この頃・・・時折このように私の読んでいる口語と表現内容がかなり違う所があって驚いている部分があるのです。

     ちなみに口語ではその部分が「あだに備えて、とりでを設けられました」なんです。

     あるいみ、読む人のその時の心の持ち方やおかれた状況で想像せよ、といった書き方が口語のような気が強くしているのですが、でも反対に色々なひとにどうとでもとられて、そこらで摩擦が起きそうな感じですねぇ・・・やれやれです・・・(>.<)

     でもまぁ、人間の奥深いまだ未知の潜在意識からくるものをキャッチしやすいのは、予め表現を形としてあらわした文面よりも、こうしてどうにでもとられそうな文面が、その未知とされる領域からのものを受け取りやすいのはあると思います。

     といらん話でした。(^^ゞ

     いやぁ~しかしほんとえらく違うもんですねぇ聖書によって。またまた勉強になりました。(^^)

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  12. 「どれかひとつの統一すればいいのになぁ~と思う」

    まったく同感です。
    しかし神はあえて様々な考えの人が色々な理由を持って
    自分の都合の良い翻訳の聖書が出回る事を黙ってみてる様にも今は見えるわけです(もちろんその刈り取りは必ずあるのですが)。

    聖書を解き明かすのは神の啓示であって、真摯に求める者には蛇ではなく魚をくださるからです。

    数年前に気づいたことなのですが、同じ訳の聖書でもなく、同じ団体でもない、一度も会ったこともないし、救われた経歴や立場年齢が様々に違っているのに聖書に関するというよりイエスに関する違和感の無い方々、その理解、信仰のベクトルが同方向を向いている人がいるということです。それは驚きであると共に大きな喜びでありました。

    若干異端視されたり熱心かもしてませんが変わり者、毛並みが違うといった共通点はありますが、さすが神の為さる事は素晴らしいと胸を打って喜んでおります。誰かが誰かに教えるとかあの人がこういっていた聖書にはこうかいてあるからこのように行えではなく
    主を知るという事実信仰歴の年若い者が浅いのでもなく信仰経験と聖書通読の多さや語ってきた立場によらず、神はどちらかといえば、とるに足らない貧しい者をあえて選んで召し、示し、行えるように導いてくださる訳です。それで神さんはやっぱすんごい!となるわけです。

    ちなみにSaltさんはたまたまではなくおそらく神のシンクロによって7月25日のメッセージに詩篇8の所も語っています。日曜礼拝という形やその中のありきたりのパターン、説教などホントはどうでも良いのですが、
    もし、興味あれば

    http://web1.kcn.jp/salt/

    でライブメッセージをお聞き下さい。
    私はほとんどMP3に落として運転中や仕事中に聞いてます。ながら~かよ!

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