10年ちょっと前に建てさせていただいた友人から「テレビが映らなくなったんですよ。新しいバイクも買ったからついでに見に来て。」と電話があり次の朝、行くとガレージにイタリアの真っ赤なバイクがあった。脇にはうちで生まれたラブラドールのベーちゃんも嬉しそうに吠えている。
テレビはブースター部を手で触れただけで直ったので「接触不良だと思います。増し締めしたので大丈夫と思いますが、様子見てください。」と、べーちゃんの頭を撫でバイクで一回り「これ、面白い。」とバカ話して帰った。
昼に彼から私の携帯に連絡「今、動物病院からの帰りですが、、、べー死んじゃった。朝あんなに元気だったのに、、、あなたが来ると誰より喜んでいたから最後に会いたくてそれでテレビ映らなくなったのかも知れない、、、。」と声を詰まらせていた。11年目の夏だった。寄ろうかとも思ったが悲しみは家族だけで受け止めるのが良いような気もした。
3日してまたテレビが映らなくなった。行くと、いつもの場所がガランと寂しく見えた。玄関には桐の箱が置いてあった。テレビはまたすぐ映ったが「2度目なので接触部品だけ変えました。これで良いと思いますが。」と帰る。と2日してまた映らないとのこと、原因はわからないが行くと直る。が、その日の午後また映らなくなったと電話が。
私は「すみません。何度も、原因は判らないのですが、今回ブースター一式交換させてもらえませんか。3万円程かかりますが」彼は「今回だけもう一度見てくださってそれでだめなら、、」と修理方法もわからないまま向かう途中、頭の中でご家族には慰めの言葉をかけてきたが、桐の箱に入ったべーの遺骨には声をかえてないなーと思った。
私は犬の霊など有るとも思っていないし、死んでしまった犬が私を呼ぶなんてどう考えても有り得ないと考えている。
しかし私の頭で理解できないから、絶対無いとは言えないなーと、頭を空っぽにして「じゃぁ、今日行ったらいつものようにヨーシ、ヨシと撫でてやろう。」と、そうしてみた。自分でも馬鹿馬鹿しいと考えると可笑しくなる様だったので余り深く考えない様にして生きていたときと同じく撫で揺すってきた。
箱を振ると中からカラカラと乾いた音がした。
箱の頭をポンといつものように叩いて「じゃぁ、いつかまたな。」と帰った。
あれから電話は無い。どうゆう事かわからない。ただ犬にも魂はあるだろう。その気持ちを造り主が受け取ってどうこうとか、わからない。本当に、私にはわからない。
でもまた会えたらいいね。
人間だけが魂を持つなんて考えてはそれは高慢です。
返信削除何様でしょうか?になってしまいます。
生命にはすべて魂はあると私は固く信じています、それは「生命」だからです彼らも私、人間も。
目に見えないものを信じられないのになぜ神がしんじられるのでしょうか?
聖書のイエス兄さんがいっている部分でもたしかあったはずです。
神さんとそれは別? それは都合よすぎと私はいいたい。
ただ、私がとても個人的な思考の観点で言わせて頂きますと、彼らの方が我々よりもエデンにいるのではないかと感じます。 神のお創りになられたそのもので、そしてそれを忠実に働いている。
わからない、それは正解です、ただそこから「わかろうとするかどうか」に行くと思います。
それらも神さんは遠慮なく聞いてくれとされていますよ。(^^)v
ちょっと厳しいコメントすみません。
ヒゲさんありがとうございます。
返信削除私にはわからない事が沢山あるので、こうして色んな考えを聞ける事もブログの楽しみです。
確かに人以外の動物は約束もしないからそれを破る事もない。政治家を引き合いに出さなくとも人は、なんなんでしょうね。
しかし、そんな人を用いて神は被造物を回復なさろうとする主の考えがあるわけで、、。
私は、残された人たちのケア優先な所が多く、しんでしまったものに対してつめたい(?)ような感じを、自分自身に感じていたので、神は何かを伝えたいのだろうかと、ぼんやり思ってます。
事を探るのは王の誉れですから
イエス兄さんにもっと聞いてみたいと思います。