2010年3月17日水曜日

聖書

聖書には翻訳の間違いや確信的な誤訳もある。
それでも神の言葉と言われるゆえんは聖書が全てでありそれだけで完結しているモノではないからと思う。
聖書を解き明かすのは色々あるが、最終的には聖霊が解き明かしてくださるから(耳を傾けるなら)、読んでいて何だかわからない事や違和感を感じたりする事もあるが、必要なときにはわかるようになると思っている。
この前あるかたがブログでガラテア2章20節の所を私訳してくださったのを見せて貰った。
本当に丁寧に分かりやすく時間をかけ注意してなさったのだろうと思い興味深く読ませていただいた。
知識においても神様のすごさを味わせていただき、本当にみことばざんまいなのだと楽しかったです。

いつも不思議に思うことは、どことか言えないのだけれども実は答えがすでに内側にあってジグゾーパズルのピースの様にピタッと合う感覚です。(もちろん自分の思いこみによる一時的な勝手な解釈の間違いはあります)
そもそもイエスを主と知るときから、そう書いてあるから信じたわけではなく、信じる事が出来た後に、そうだよね、ここにもこう書いてある、という具合。
何とも曖いな感覚では有るが 私はそれも大切にしたいと思う。
羊は羊飼いの声を聞き分ける事。
それまで一度も聞いたこと無いのだが、初めて聞いたときでも間違いなくイエスだとわかる感じとでも言えばいいのだろうか。
たいていは精神的にもボロボロで状況はは全く変わっちゃいないのだが、とにかく、ただうれしいものです。

答えは、本当に心のずっと奥の方にあって後でわかったときに思い出すように確認するもの。
では、どうやってそのきっかけがあたえられるかと言うなら、知らない事は知っている方に、聞くしかない。知らないことは恥ずかしいことでも無い。でも聞こうとしない=知ろうとしない事はどうなのだろうか?
聞くことはまるで簡単そうだがが、プライドもからし種程ならいいのだが、、、なかなか聞くこともしようとしない心は石の様で水さえも、しみとおる事も出来ない。
石をどけてたり踏み固まった土を耕すのは疲れる。でも良い農夫であるお方はあきれるほどあきらめることをしない。
結局はイエスがどの様な方であるかを常に前に置くこと(謙遜と言い換えても可)こそ、正しい聖書の解釈に繋がると思う所が大きいと感じる。
何でもそうなのですが、私の方が正しいのだ的な人には付ける薬もない。
自分が病気で問題があるとわかってないなら医者の所に来て伺うことはないのですから。
日頃から自覚無くとも回りからは「あんたは病気だな」と言われています。(特に家内に)

3 件のコメント:

  1. この写真の書物は全部聖書ですか? 随分たくさんお持ちなんですね。どこの何でしょうか?

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  2. 一時期聖書を集めることが趣味みたいな時期もありました。今はやっとオ○シモさんの様に聖書を理解することが信仰ではないと思わされています。まあ正しく聖書を理解することはイエスを理解することなのですが、私がずれやすいもので。
    今では格好いいからオブジェの様にかざっているだけのゴミです。

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