画像は松代のあんずです。
家内はこれでシロップづけをつくってくれますが、去年は私も一緒に取りに行ってきました。わざと小さな実を取ったりするのは私の正確も見えて面白い。
木が好きです。好きになると木の事が気になります。
どんどん木を覚えていきます。
するとますます木の事が好きになります。何という木で、何処で育ち、どれくらいの年月を過ごし、どんな性質を持っているのだろうか。
どんな香りを持ち、どんな花が咲き、どんな実を付けるのか、その味はどうなのか。
製材されたり板になった木を見ても、これは北向きの痩せた土地で苦労して育ったのだとか、岩の斜面で踏ん張って育ったんかなと考える。
ほとんどの木には特有の香りがあります。
たとえば日本固有の檜は何とも言えない良い香りで好きです。
これと同じ香りの木はしりません。シーダーの仲間ですが、イエローシーダー、レッドシーダー、エッセンスシーダー、サワラ、槇、豪州檜など一つ一つ香りも違います。
台湾檜が一番似てると思いますがが、臭いが強すぎで頭が痛くなってくる感じです。
「いい匂い、木の香りね」と言ったりしますが、正直臭いのもあります。
ウ○コみたいな臭いのもありますし、法律で切ったり削ったりする事が禁止されている木もあります。
ローズウッドみたいに削ると薔薇の香りの木もあります。
お茶の木を削っていたとき根も木も全てお茶の良い香りがあることを知りました。
新春には木の芽や葉を天ぷらにして食べます。
その時木の香りは感じることは出来ますがいくら私が木が好きでも、木そのものは食べる事が出来ません。
人は消化出来ないしそもそも美味くない、でも木になった実は食べることが出来ます。
同じように私たちは命の父なる方をそのままで受け入れることは出来ません。
木の香りを嗅ぐ程度には神の存在を感じる時もありますが、体の中に木を取り込むことは出来ないように真実の方を受け入れる事が出来ません。
しかしその命の木に実った方であるイエスは受け入れる事が出来ます。しかし人には自由意志が有りますので神であっても強制なさいません。
神も「思いのままに取って良い」とあります。
命の木の実であるイエスを食べた人を土壌として 命の種は芽を出し時が来ると花を咲かせ、実を付けます。
人はパンのみで生きるにあらずと語ったイエスを私たちは頂いて永遠の命をもらいます。イエスもまた私たちを躯(むくろ)としてその命を世界中にまき散らすのです。
庭に何を植えるかで家内と意見が合わないときがあります。
だいたい私は実のなる木を植えたくて家内は花を植えたがる。
「おい、これ草だぞ、木なら何年でも」という具合です。
駐車場にハーブを植えてあります。車で乗り入れるとタイヤに潰された草から良い香りがします。
私も誰かに踏まれたとき立ち上る香りはそうならいいな。
最近はだんだん花も好きになってきています。
今年も杏取りに行きたいな。なんせ思いのまま取っても良いところですから。
>庭に何を植えるかで家内と意見が合わないときがあります。
返信削除だいたい私は実のなる木を植えたくて家内は花を植えたがる。
「おい、これ草だぞ、木なら何年でも」という具合です。
その点に関してはお気持ちがよく分かりますよ。男は現実的になり、女性は見てくれの綺麗さ可愛さを愛(め)でるのは、実に不思議に感じます。普段は逆で男は夢を追い、女性は現実的に生きるんですから。
なるほど、言われてみればそうですね。
返信削除不思議さに気づかせて頂きありがとうございます。
男と女、これも深い?