2010年6月24日木曜日

ひとり立ち

この間Mちゃんが来てくれ久々の交わり。
キリスト教という団体の中で破船し、はたから見てもかなり苦しいところを通ったと思うが彼女はとても明るい。
ずっと外で、お互い最近の近況と主のなさった事を話し込んだ。

今朝ゴミを出しに行ったらかなり大きな桜の木が倒れ道を塞いでいた。
昨日までは立っていた。
虫が入ったわけでも病気でも地崩れでもない。
でも、倒れるだろうなと予測はして車でそこを通る時は確認していた。

以前、その木の周りには沢山の木があって言うなら「林」状態の中にその桜の木は居た。
風が吹いても直接自分には当たらず全体でそれを担っていた。
この春に、家にも原木を運んでくれたお爺さんがそのあたりを一掃した。
林の持ち主は、道ばたの桜は立派で花も綺麗だから置いておくように言ったのだと思う。
お隣と支え合っていた様に見えなくとも林の中の木は風雪に独り立ちするほどの根は張らない。いや張りたくとも張れないのだ。そもそも周りが許さない。今、立っている方も近いうちに倒れるだろう。

今でもイスラエルヘブロンの町外れのギリシア正教の教会の庭にセイチガシの大木があるらしい。「アブラハムの樫の木」と呼ばれているが、それは観光用、普通寿命300年だから、、。一本立ちのものは、聖書の中で聖所や墓地の目標とされた。

クリスチャンの多くが教会と名の付いた場所に集まり、仲間内ばかりで、神様の話をする。神の畑は広大で刈り入れの時期が来ている。ぶどう園の主人は、働く労務者を雇いに朝早く出かけるという人手不足が続いている。
主人は、部屋にこもってないで、目を上げて畑に出ていって足で歩き回り、手を動かし、収穫して欲しいと思ってないだろうか。

Mちゃんは1年ほど会わないうちにずいぶん逞しくなったように感じた。
私たちは主によって支えられ倒れても起きあがる。
世にあって一本で立つ事は難しいし無駄に土地を使う効率の悪いやり方かも知れない。
でもそんな場所こそ、自分の墓として、神の祭壇を築く所にしたい。
何処にどの様に根を下ろすか、それはいつか神の前に立つときの自分の立ち位置にも関係している。

6 件のコメント:

  1. 実に単純な話なのですが…

    私は昨年まで8年間教会の”シツジ”をしていました。何も立派なでのなく、そういう役回りでしていただけです。それも年明けから交代していただきました。
    職場でも迷い戸惑いながら管理職試験を3年受けていました。が、「もう受けません。」と意思表明しました。すると、そういったものに付随していた事がなくなり、随分とスッキリしています。時間も気持ちも”空き”ができました。

    そうしてわかったことは、なんだかんだいっても、そういうものによって生まれる”忙しさ”になんらかの満足を得ていた自分がよくわかりました。「こんなこと…」と思いながらも、こんなことに時間と気持ちをとられる自分をよしとしていたのです。主に問わずとも「これもみこころなんだろうな…」とやっていたわけです。

    なくなると「まあ、みこころか…」とやる以上に「これでいいのか…」と考えさせられることがありました。
    とりあえずやっとけ!というものが減り、何を大切にするか、主に問われているとより自覚できる感じがします。

    まわりの木々がとっぱらわれ、雨風を直接受け出した感じです。
    そして、見えない根をゆっくりのばすときなんだな、とあらためて教えられました。特別なことをするのではなく、今、与えられていることを大切に丁寧にゆったりと向き合おう、と思っていたのですが、電気屋さんの文章を読み、再度、そう確信しました。

    W杯1次リーグ突破、おめでとう!
    テストマッチ4連敗の逆境から、本当によかったと思います。

    派手な今朝の話題と、地味な私の日常の尊さ、どっちも嬉しいですね。

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  2. あかし、ありがとうございます。
    一聞すると、教会の執事を退役なさることは良い証に聞こえないのですが、それは肉の耳で聞くからで、神の宮での奉仕御苦労様でした。

    私も似た所を通させていただきました。
    私の場合下手に枝葉を繁らせていたもので、根元からぽっきり的な、、、
    8年程経った今、折れた株から若枝が伸びてきてそれは、私の力によらない再生を見させていただいております。
    主を信じた時の何を見ても虹色に見えた喜びにも似た、しかしじっくりとした熾きのような暖かい光。
    外庭に、居たときと違って人から誉められたり、もてなしたりは無いのですが、神に仕えるということを少しだけ経験させてもらっています。
    聖所の中は人の目から見たら実に地味ですよ。
    誰からも、見えませんし。
    「何やってるの?」的な評価しか人からはもらえません。

    ”特別なことをするのではなく、今、与えられていることを大切に丁寧にゆったりと向き合おう、”

    まさに私もそれをあじあわせて頂いている所。
    木には望みがある、の言葉も真実ですね。


    W杯、中田も喜んでいたみたいですね。
    派手な話題と、地味な日常、両方ともまた、お願いします。

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  3. 「8年程経った今、折れた株から若枝が伸びてきてそれは、私 の力によらない再生を見させていただいております。」

    そうですね。私の力によらない再生を見る、期待すべきことは、その一点ですね。

    救われた教会を離れ、15年ほどして今の教会に属しました。
    ゆっくり暖かい光を味わい、感謝します。

    ありがとうございます。

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  4. う~ん。味わい深いやりとりですね。

    「人手によらない」「そうこうしている間の生長」が鍵かな。

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  5. 楽しい時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました。倒れても自分が神としてみてきたことは影で本物ではなく、偶像だったことをしり、それにしがみついていたからこそだったろうし、それに目覚めさせていただいたことは本当に有難いことです。これからももっと澄んだ目を持たせていただけたらと思います。

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  6. 銀じ郎さんへ

    そうですか、その時は辛かったでしょうね。
    銀じ郎さんの中にあるいのちが落ち着く所に、銀じ郎さんもとどまっておられれば、何処であってもそこは神の国だと思います。

    時間は不思議なものです。

    ありがとうございます。


    Saltさん どうも

    ”「人手によらない」「そうこうしている間の生長」”

    アーメンです。
    以前はどうしても自分でいじくりがちで、キリストの、いのちを大リーグ養成ギブスを付けて盆栽の松の枝の様に、狭い鉢に入れ、自分の良いと思う形にしようと躍起になってましたが、そのうちバネ自体がボヨヨーーンと弾けてしまいました。

    ははは、(笑い事ではありません!のりつっこみ?)


    miyuちゃん 初コメントありがとう

    こちらこそ楽しかったです。
    影は移り変わっても本物は変わらない。
    偶像だと知れたことが素晴らしいです。

    マタイに
    熱病で床に着いているのをご覧になった。
    イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。

    目覚めるということ、見えるようになるということ
    当たり前に感じていたことが、本当に深いなーと日々おもわされています。

    教会に仕えることと、神の宮に仕えること、そして神に仕えることは、違うわけで、
    このペテロのしゅうとめみたいにイエスをもてなすことが出来るものは幸いです。
    また、家にもブログにも遊びに来て下さい。

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