人は絶対的な存在に憧れる。
でも、もし自分がそうなったなら耐えられないだろう。
「孤高の存在」という言葉もあるが、
絶対的な存在は比べることやライバルどころか本来、近づくものさえいないと思う。
私が中学校の時だった。ジャージ姿の体育のU先生が6時間め教室に入ってきた。
「教科書をしまえ」とは言わなかったと思ったが、それは使わない授業。
「なあ、これだけは確かだと信じてもいい事何か知ってるか。言ってみろ。」
ざわざわしていたが、だんだん静かになっていった。
「世の中は移り変わっていくものだ。だから昨日までのように明日が来るかわからない。-来週またウルトラマンや馬場が勝つか負けるか、それどころか放送する事さえ確実じゃない。」考えてみた。信じても良いこと。色々あるようで確実な感じがしないことも多くある。
愛情や友情、時間や日本人であること親やお金、好きな食べ物やお気に入りの靴などディスカッション式の授業はこの議題だけで1時間使った事は良く覚えている。
6時間目のチャイムが鳴った。チラリと腕時計を見た先生はこういった。
「一つだけ先生の考えを言うぞ。それは今、自分がここにいるということだ」
みんな、わかったようなわからないような、ポカンとしている奴もいたと思う。
「ホントの様な”夢”を見て覚めた後あれがホントかも知れないと思うときもあるだろう。でも、そんなことを考えている今の自分こそが確かな存在で、自分が生きている、ここに確かに存在していると、いうことそれは信じてもいいと先生は思っている。じゃあ今日は終わる。起立!」
時間の関係で少し中途半端な終わり方になったかもしれない。
たぶん、先生は生きているということを、今を大切にしろ、と言いたかったのだと思う。
今、自分は生きている。でも死んだらどうなるのだろう。死後の世界ってあるのだろうか。
もしあるなら、そこはどんな世界なのだろうか。今の世界と、どう関係しているのだろうか。天国はあるのか地獄もあるのか。それを管理し決めるのは誰なのか。それを私たちは”神”と呼んでいるのだろうか。神はいるのか。もしいるなら、その”神”を知ることは出来るのか。もしいても知ることが出来ないなら、それは、いないのと同じじゃないか。
そんな思いがグルグル頭を回った。確認するために一度死んでみるかとも思った。でも、いつか死ぬなら今じゃない。とにかく親は悲しむだろう。最後には、そう思った。
「孤高の存在」という言葉の通り、人の思いを遙かに越えた所におわす神はある意味孤独だろう。
”私はある”と言う神は足りないことも無いだろうが、聖書にはそんな”お方”が、人となってこの世に来られたと書いてある。
絶対的な方が相対的な世界に来られた。神はいる。
それに気づいてから、その方は誰で、どんな方なのか本当に知りたかった。
使い古された言葉ですが、人類が月を歩いた事より、神が実際にこの地上を歩まれた事は驚くべき事である。
神という漢字は示す申すと書く。そのお陰で今、私 は神を知ることが出来たのだ。誠に有り難い。
ハート形の陶器のケーキ型をもらったお家の玄関先ではその狭いスキマで小さい命が元気に確かに生きていた。
追記.小さいので画像をクリックすると見えます。更にもう一度クリックするともっと大きく見えます。
高校時代、私も空間と時間の無い、絶対無の状態を
返信削除頭に思い浮かべてみようと何度も試みましたが、
当然のこと不可能でした。
しかし、まさかご人格を持った絶対者が居られるとは。
しかもそのお方に知られているとは・・・。
本当に凄いことです。
セキレイのヒナ、元気そうですね。
気になってましたので、
拝見できてうれしいです。
ゆばるさんの思い少しは共有出来ます。
返信削除私の中学の弁論大会の議題が「無」でした。
圧倒的に得点は一位でしたが(ちょと自慢すみません)、先生の権威により賞典外になりました。
だから、人格を持った神がいると知ったときの絶望感とマジかよ!はすごかったです(?)
ありがとうございます。私もセキレイの雛が無事に飛び立つ日を、父なる神が私たちもこんな風にみてるのかなあ的感じで願ってます。