土、日、月と3日間奈良から来て下さったSaltさんと遊んだ。
「遊んだ」という言葉は少し不謹慎にも自分でも感じるが「遊んでもらった」のでも「遊んであげた」のでもなく他にぴったりの言葉を知らなかったので今回は御許し願いたい。
責任のある事やその場所などにおけるリスクなどもあったが全体を通して私は何もなしていないが、私たちはすでに得ているのである。ただ主のみちびき、緩やかな風の中で私の性格の為に彼を色んな事に引きずりまわした、と、いうだけなのだろう。
古道を歩き、バイクに乗り、湖を渡り、蕎麦を食べ、風呂に入った。
わずか3ヶ月前にはお互い名前も知らなかった関係とは思えない旧友のような気持ちで私のくどい話を苦虫を噛んだような顔もせず聞いてくれた。学生の時と違って友達を作る事が以外と大変だと気づかされる。
作ろうと思っても作れるモノでのない。
「友」とは、私にとって軽くない。聖書には「その友の為に命をすてる」とあるが、親は子のために、優等生・岩清水は早乙女 愛に「君のためなら死ねる」とは言ったが、友の為に死んだら残された家族や養うべき自分の子どもや時間はと考えると深い。
損得勘定や善悪、又は義務や使命の問題ではなくそれは「愛」の働きである。
本来の私の中に「愛」は無い。
だから「信仰」の問題と言っても差し支えないだろう。
誰が何のために、何処で、いつ、誰のために、何をするべきか生まれたままの私はしらない。
基本、人は自己中で自分勝手だと思う。
『朋』は、同じ先生に習った『友』だと以前のコメントに書かせてもらった。
私たちにとって同じ先生とはイエス キリスト。
彼は私にとって唯一の牧師であり、私たちの為に死んでくださった唯一の方。
また彼の事を知りたい、聞きたい、話したい、一緒にいたいです。
とりとめも無い時間をバカみたいに過ごしながらそこにおわす方との時間は網を置いて彼についていったペテロと同じだと私は信じている。
今朝、メールをあけたらMさんからセキレイの雛が無事飛び立ったと連絡が入っていた。
Saltさんが分かち合ってくれた言葉が思い起こされた。
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。
あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。
見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。
若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。
幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。
たっぷり遊ばせてもらいました。でも、まだまだ遊び足りない。そんな感じです。
返信削除たった3日間でしたが、すべての場面の記憶が「からだ」にしっかり残っています。
教育の現場で本当に必要なものは何なのか、最近ちょっとした迷いがあったのですが、少しクリアになった気がします。
そして、ガリラヤ湖がらみのメッセージにも、表現力がやや深まるはずです。
右腕のしびれは、もうすっかり大丈夫です。
同感です。
返信削除風や波を見ちゃだめですよね...。
そういえば、勝手にセミヌード載せてしまってすみません。 タイムドメイン届いて、聞いてますよ、良いですね、ありがとうございます。
シルエットにセミヌード・・・
返信削除さらにリアルに会いたくなる方が出て来るかな。
「会ってがっかりSaltさん」とならないように、ますます精進いたします。
タイムドメインはなかなかのもんでしょう。
大丈夫ですよ。
返信削除ただ「会ってびっくりSaltさん」にはなるかもしれません。
思っていたのと違う!(勝手に思って、勝手にがっかりするなよ!と、言いたいが、、、まあ、パウロもあったみたいし)
”あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。”
一緒に裸で風呂に入るのは、いいとして、
一緒に裸で歩みたくはないですね。
Saltさんに会いたがる方は私も含めてSaltさん自身であるそのフルヌードは見たくない、
その整えられた白い衣で覆われたすばらしさを見たいはずです。
私も共に、主と弱さにおいてますます、精進したいです。
タイムドメインもう一つほしいなー
私たちが義とされるのは、100%白い衣のゆえですが、その義の衣の着こなしが大事ですね。
返信削除着ている「私」がいなければ、衣になんか意味がないわけで、愛も宙ぶらりんです。
これもまた大事なポイントだと思います。
いわゆるキリスト教では、このポイントの置き方が主客転倒している感じです。
なるほどたしかにその通りですね。
返信削除ショーウインドゥにドレスだけ見せられても
それはただ綺麗なだけです。
私のためにそれを着てくれることが私の喜び。
アメリカなどの行った時など家内の土産を買ったりすると、家内は自分なら絶対、選ばないような服でしかも、着てみると思いのほか似合うので喜んでくれるのですが
家内が「こんなの、どうやってえらんでくれたの?」と聞くので
私は「マネキンが着ていた」
家内「、、、、。」
もう少しロマンチックな言葉遣いを覚えても良いかも知れませんが、
私は、あえて嘘はつけないので、、、。
ただ、私は完全体型を持つと言われるマネキンに興味を持ったこともありませんし、今後も興味を持つことはない。
そのマネキンにかけられている衣装を彼女に着せたときを想像して代価を払って買う、着せる
「見よ、それはひじょうに良い」となるわけです。
彼女という存在がないなら代価を払うこともない。
無人島で一人だけでは、いくら愛があっても使い道がないです。
「人がひとりでいるのは、良くない」
それ~ぇ、ほんとやわ。