クリスチャン夫婦が多分ですが、よく言う言葉(?)に「もし、神様と出会わなければ私達は離婚していただろう。」が、あると思っている。
実は、私もその一人だが、クリスチャンでも十分離婚出来る。残念ながらクリスチャンに出来ないことは無いのである。
ただ、クリスチャンとして生きることは生まれついての私と違う行動になる。
私がキリストを信じ、「長野に行くことが神の道」と伝えたと時、私を産んだ母でさえ怒り呆れ、家内に「こんなアホな男とは離婚して、あなたは、この家に残れ」と言った。
私は家内に言った。
「俺は長野に行く、俺と一緒についてきてほしい。約束する。あなたは必ず幸せになる。それだけではない他の女が見て”あなたは幸せね”とみんなが羨ましがるほど幸せになる。」
それが、3人目の子を身ごもっていた彼女への2度目のプロポーズであり、
その時まで、ただ好きで一緒にいた私たちのギヤを変えた瞬間だった。
不幸は具体的だが幸せは抽象的だ。これが幸せという形が無い。
家内を幸せにする方法を知っていたわけではない。
ただ私には自信があった。
神に従って不幸になることがない。神は常に神にとっても私にとっても最後には最善で最良をなさる。
だからそんな神に従っていく私に、従ってついてくる妻を神は絶対幸せにする。
私には自信が無いが、主なる神には絶対の自信があった。
家内はその時、神を信じていたわけではなかったが、私の言葉を信じてついてきてくれた。
信仰とは神とその人の1体1のものであり、檀家や世襲などはない。
ただ一つだけ例外はあるかも知れないと思える出来事を聞いた。
軽井沢のあるご主人は、誰にも内緒で書斎で聖書を読んでいた。
ある日イエスキリストこそは神であり私の救い主だと信じるにいたり、書斎から出てきて彼の妻に「私はキリスト者になった。そこで聖書に書いてある通り私は洗礼を受けたい。」と奥さんに伝えた。
彼の妻は「私はいつもあなたを信頼してついてきました。あなたの信じた神を私も信じて洗礼を一緒に受けたいと思います。」と言い、彼らは洗礼を受けた。
彼らはその後、教会の良き働きをなさっていると聞いた。
聖書の中で女性が信じたという書き方はそんなに書かれていない。
たとえば、サラは”彼女は約束してくださった方を真実な方と考えた”と書いてある。
神を信じてすごす事と神に従ってすごすことは、同じかも知れない。
家内は私の母でさえ「息子はおかしくなった」と思った私を「この人は本気だ」と信じてついてきてくれた。私はそんな彼女の信頼を決して、裏切る訳にはいかないのである。
ベッドルームの壁には、まだ結婚のなんたるかも知らないパンチパーマの私がいる。
よー、こんな男についてきたなー。
知人などに離婚や出来ちゃった結婚したのがいる。別々の人物だが。カトリックは離婚を認めていないが、離婚を認める理由は聖書、特に新約ではどこになるんだろう?
返信削除聖書は離婚について何と語っているんだろうか?
疑問に思ってコメントしてみました。
ご質問いただきありがとうございます。
返信削除新約聖書の言葉を集めたりちぎったり縮めたり膨らませればいろんな答えがでるでしょう。
例え聖書の言葉であっても人が語るときは偏る話がほとんどです。
イエスはサマリヤの女にそれが良いとも悪いとも悔い改めさえ迫ってません。
ローマを読むとき私たちは律法の下にはなく、恵みの下にいることがわかります。
過去の罪もこれから私が犯すであろう罪さえ既に支払われていることで初めて私たちは萎縮することなく大胆にイエスに会うことが出来ます。
本当に大切なことは霊に聞き従うことだと信じています。
う~~~ん・・・。
返信削除電気屋さんカッコいいです。
こういうと軽く受け取られるかもしれませんが、
真面目ですm(__)m
なかなか、言えない言葉だと思います。
電気屋さんの妻さん、凄く幸せだと思います(^^)v
電気屋の妻さん、電気屋さんと出会えて良かったですね(^^)/
何だか、嬉しくなりコメントしましたm(__)m
りぼんさん
返信削除真面目といっていただいたり、幸せと思っていただき
ありがとうございます。
何も知らず若い2人が結婚して、救いに預かり、主の恵と憐れみによって過ごさせていただいています。
ただ主人、変わり者にはちがいないです(^^)
ですから主のなさることはすばらしいです。
電気屋の妻でした。