2016年6月22日水曜日

ハーレーダビットソンというバイク

ある意味でハーレーをハーレー乗りをアメリカを本気にさせたのは日本人である。

アメリカに数百もあったバイクメーカーはバラ色の夕暮時を迎える事も無く
最大のライバル、インディアン社も1953年に倒れた,
が、残ったハーレー自身も勝者と言うよりも血だらけの帰還兵の様に息も絶え絶えで当時年間数千台しか売れず
フォードが自社製品より安い4輪を販売しはじめバイクが交通手段の主流になるという夢は完全に断たれ
ヨーロッパ市場でもハーレーは見向きもされていなかった。
そんななか唯一の例外が日本であった。
アルフレッド.リッチ.チャイルド(もちろんユダヤ人だね)が1920年代にはコンスタントに年間2千台以上が売れる金の鉱脈といえる市場を発見する。
実にハーレーが生産する半分近くを日本が捌いたのである。
その後アルフレッド.リッチ.チャイルドの応援もあり今も現存する三共製薬がライセンス生産権得て、
当時ハーレー本社にとって邪魔者となりつつあった古いモデルの生産ラインの機械や金型全てをミルウォーキーから日本に運び
日本ハーレダビットソン社となり日本でハーレーを生産し始める。

その後戦争で敵国の名前を使えなくなっても一般公募により「陸王」として改名1959年まで生産を続けた。
その頃日本でタケノコの様に生まれたオートバイメーカーは陸王だけでなくイギリスの名門メーカーをあっという間に駆逐し、アメリカに進撃を開始していた。
ホンダはイメージの悪いハーレー乗りを揶揄するかのように

「ナイセストピープル オン ホンダ」

のキャンペーンを開始→大成功を収め
他メーカーも未開の地の様にアメリカ市場に乗り込んだ。

片や迎え撃つハーレーは1968年にAMF(アメリカン・マシーン&ファウンダリー)社がハーレー社を傘下に加え、AMFの一部門に降格
AMFは総合的にレジャー用品を扱うベンチャー企業でAMFマークは日本では当時ボーリングのピンを並べる機械?によく付いてたと思います。
とにかくハーレーは自力で動けずとても日本車に対抗できる手段は無い状態だった。

なすがままだったハーレーの復活は意外な所から始まった。
全米の正当派のモーターサイクルマガジン数社がもうミルウォーキーのマシン(つまりハーレー)にはレポートする必要は無いとして試乗すら取りやめた頃、
その反動として安手ながら威勢のいい雑誌が出る。
疲弊しきった退役軍人やオートバイギャングとも呼ばれた、世にならず者用愛読書として
「イージーライダーズ」や「アイアンホース」が創刊
瞬く間に二輪雑誌トップの75万部の読者を築き上げ、二番煎じの摸倣誌までもが既存モーターサイクル雑誌を引き離し出版界を騒然とさせる。
彼らはメーカーが売ろうとする善良平凡のイメージにことさらに反抗し、胸をはだけ入れ墨をむき出し改造ハーレーにふんぞり返る姿を掲載し続けた。
それまでもアウトローと呼ばれるバイカーは沢山いたのだが社会の底辺であまりにもバラバラでカウント出来なかったのだ。

ハーレーをはじめアメリカのモーターサイクル団体(代表はAMA)は長きに渡り社会の底辺に居る彼らを無視し白眼視してきた。
ある時AMAは

「ライダーは一般市民から悪く見られがちだが、その99%は愛すべき善良な市民なのだ」と公言

それに反応して彼らは自分達こそ残りのそれだと自らを「1%ter」と呼んだ。
彼らは時に留置所や議会所を取り囲み、仲間を武力で開放したり
ヘルメット義務化法案時期に、路面にむき出しの頭をぶつけて割ろうとも文句を言わずにいる権利を求め勝訴。

「イージーライダーズ」は当時ハーレーのディーラー団体が1ページ広告を出す提案をしたが、雑誌側はAMFハーレーのCEOがスーツ姿でリムジンで乗り付けた事などもあり(?)全面白紙のページをわざと掲載

そんな中一人の創始者の子孫があることを思いつく、ウィリアム G.ダビッドソンである
通称“ウィリーG”は後にこの会社の救主となるのである。
彼はひそかにアウトローらと接触し彼らの生き方を教えてもらう。
彼はいささかの創造的思想と少しの幸運があればこの潮の流れを変えられると確信していた。
彼は部品倉庫から集めたような今までに無いマシンを世に放つ

1977 FXS LowRiderと1977 XLCRである
デカくて重い部品を外しフォークを伸ばし、セルさえ外してワザとキックスタートに

これが大ヒット!

その頃には結婚してみたものの上手くいかない夫婦の様にAMFとハーレーの離婚は明晩避けがたい状況でもあった。
AMF側は既にハーレーの運は尽き果てたのだから、出来るだけ損失を減らしたいと売却工作を始めていた。

「ウォールストリートジャーナル」がAMFはハーレーをホンダに売却と報じた事で
ハーレー社員のストライキで危うくハーレー社自身、流産しかけそうな時
13人が個人資産を持ち寄って資金を捻出、1981年2月不協和音が絶えなかった10年の後AMFは重荷から解放される。

その頃はホンダとヤマハ両巨人の争いで競い合って価格競争を繰り返しハーレー社の売り上げ増加の可能性はゼロに近く細っていた。
アメリカのバイクと車業界は全体が恐慌状態で日本はその指針となるカルフォルニアの半分を支配

産業コンサルタントは日本とアメリカではビジネスのやり方に3つの大きな違いがあると指摘

1.日本では労働力は技術だけでなく、”やる気”も評価されること
2.いわゆる”ジャスト イン タイム”在庫管理の徹底
3.”統計的工程管理”という何所でも通用する真理

この考えの元はアメリカで生まれ、その後ガラパゴスの様に島国日本で標準化→さらなる発展を遂げ
アメリカの時代遅れの技術と比べて日本は物作りを桁違いに高めていた。

独立したハーレーも日本の侵攻に対する反撃として、日本のやり方を取り入れ、
脆弱な電気関係は日本電装に、品質にばらつきのある足回りやブレーキは、元はホンダが作ったニッシンに
それにウィリーGの卓抜なアイディアがプラスされた。
そしてその頃カルフォルニアから馬に乗って現れたような長身の男レーガンが大統領になる。

アメリカは”原点にもどれ”が合言葉になり何故か彼の時代を超えたヤンキー的なことばとその心地よい語りかけをきっかけに、
デジタルウオッチに変えてアナログウオッチに
喋る電化製品や車が疎まれ、本物のウールが好まれカウボーイブーツや手作りのベルト、リーバイスのジーンズが大人気を呼ぶ。

1983年ウィリーGはペンシルバニアのヨークからミルウォーキーのホームグラウンドまでツーリングを敢行

旅のテーマは「鷲は一羽で飛ぶ」

これはAMFとの繋がりの終了と日本車との単独の戦いを意味した。
これ以後ハーレーのロゴマークに鷲が多く入る事になる。

その頃には市場の拡大はどうやらアウトローと準アウトローの集団から始める事にハーレー社も気づき始める。
ハーレーの魅力を一般大衆に向かって最も強烈に放ってくれるのは実は彼らなのだ。

「また日本がくる」

そんな思いは真珠湾世代でなくてもアメリカ人の意識にある。
時代遅れのデカくて鈍間な恐竜に好き放題群がるネズミの様な日本のオートバイ
それはパールハーバーに停泊していた戦艦らを突然やってきて好き放題に破壊したゼロ戦の様に彼らは感じただろう。
今や唯一のメイドインUSAのバイクであるハーレーを自分らアメリカ国民が守るのだ!ってね

日本のお蔭で彼ら自身が見限っていた時代遅れのマシンの旗の元、彼らはついに一致団結したのである。
手持ちのモノは古臭く重く扱い辛いものだけど、実はそれこそが大切なモノだと気づいた。
少々薄汚れているが
やっぱり青い鳥は自分達に最も手近なところにいたのだ。

それ以降、焼き付き、オイル漏れ、駆動系のトラブル、電気系不良、ベアリング焼損、ヘッドガスケット洩れ、バルブ焼き付き、その他あらゆる無数の路上でのトラブルは、
ハーレーを愛するライダーからただ許容されるだけではなく妙に望まれるようになる、

「だってハーレーだからね」(以前からアウトロー達はそうだったのだが)。

また繰り返すそのトラブルのお蔭で部品は常に供給されるし、完成度も低いから直しやすく結果アフターマーケットパーツもよく売れる。
壊れる事で需要が生まれ、修理する事で愛着も育ったわけ
それらの部品群はモンキーと同じで
どんなに古いハーレーでも全くゼロから組み立てられる程である。

日本のバイクに慣れたライダーはハーレーのブレーキは効かないとかすぐ言うだろう、それがどうしたこれはMade in USAなのだ。
気にいらないなら自分で好きにすればいいパーツは悩む程に沢山ある。
ハーレーはあくまで素材なのだ。
特にショベルの時代、新車時点ですら完成品とは言えないものだった。
そしてそれはいくら手を掛け品を変えても完了する事は無いだろう
だからいつまでも弄り続ける事が可能となる

ここまで読んで頂けたなら

「どうしてハーレー?」、、とか 「ハーレーの何がイイの?」

そんな疑問が少し理解出来たり、今日も汚い格好でボロボロのハーレーに乗る輩の気持ちのホンの一部を許せるかも知れない。


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