2015年6月22日月曜日

アプローチ

 梅雨時期の朝は清々しの世界で満ちている。
Lani!を預かっているからこそ、(半強制的に)味あわせて頂く時間
朝露に濡れて、泥だらけになるけど
Lani!もどんどん森が好きになっている感じを共感してもらってる。
家を建てる時はお金が無かったけど
条件は一つだけ「森が付いている事」
ありがとうLani!
 多くのビリーバーより、そうでない人々といる方が楽と言うか楽しいと言うか、、
何だか無理してない様な自然さを感じる
頭で考えるとそうした状況は「お前がクリスチャンとしてちゃんとして無いからだ」とも
なるのだけれども、散々やってきて、その声が偽りだと心の奥でわかってきている。

今はいないけど、それなりの動物を飼ってきて、彼らと過ごす時間も
遠いエデンでの時をリフレインさせてくれるのかとても心地よい

彼らの方が自分の造り主をちゃんと知っている、そんな感じもする。
四足のスタイルは常に主を礼拝している様なもので彼らからも主の素晴らしさは感じ取れる。
第一彼らは偽りを言わない

「集まる事はクリスチャンの義務(または喜び)」 
霊的でもないのに「霊の交わり」

それなら普通にオーナーズミーティングだとかサークルだとか居酒屋の集まりの方が自然でいい
クリスチャンのその集まりがどんなに「タイムリー」で、興味深い「トピック」で満ちていても
御子そして御父との交わりがないなら、嘘を吹聴しているようなもの
聖霊を頂いていても、自分の霊が発動してないなら健やかでないなら
神の三者面談に参加させて頂く事は出来ない
 「箴言」3章5節、6節に次のように書かれています。

  心を尽くして主に拠り頼め  自分の悟りにたよるな
  あなたの行く所どこにおいても 主を認めよ
  そうすれば主はあなたの道を まっすぐにされる

一流のアスリートには、トレーナーがついている
自分だけで自分を鼓舞し、鍛えあげる事は難しいし、無理をして体を壊す事もある
時には「こんな訓練、意味があるのか」と思われるような時もあるだろうが
彼が一流のトレーナーなら信じてそれに従って、やってみる
「主」ほど一流のお方はいないのだから、私の思いの内の雑草の様なモノ
壊れて朽ちていく城壁の部分を少しずつ矯正してもらう時間

「愚かさは、少年の心に結びついている。
訓練の杖が、これを彼から引き離す。」

箴言22章15節


道を歩いていても、ダンスでも男がリードして女性が付いていく
そんな形が美しいと感じる。
キリストは常に「主」であり、私は「従」
彼は「夫」であり、私は「妻」(あっち系の意味ではなく立場的にですが、、)

証であってもそれは「イエスキリストの証」であって私の証ではないはずで
それらは、聖書を読んだり、知恵と知識によって積み上げられたモノではなく
上から降りてきた「ことば」なのです。
「我が意を得たり」はキリスト者にはない
自分の思いを自分の分別に寄り掛かる事をしないで、ただ主に期待し主を待つ
私の知恵を愚かにも私の眼は賢いと思いがちになる
彼こそが、彼だけが、私の道を真っ直ぐにして下さる。

つくづくキリストとの付き合いは、向こうのリードで始まる

「啓示」

なのです。

「主よ、今日も私はあなたを褒め称えたい。あなたのアプローチ今日も待っています。」


4 件のコメント:

  1. ラニちゃんから始まって、深い黙想。
    素晴らしい啓示的内容で恐れ入りました。
    確かにと思います。
    とにもかくにも、自分じゃないです。
    上から降りてくるもの、リードも主にあるのみ。
    我、待てり、です。

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  2. 主のリード、ステップそしてジャンプ 
    待ち遠しいです。

    以前飼っていたクロラブのベルもそうなのですが、リード(縄の方)も首輪(オシャレではステキです)も極個人的には好きじゃないんです。
    見えないネームプレート、見えないリード
    「ことば」であるじの思うままに動いてくれるなら、必要ないかなって

    彼女とのライフスタイルはなかなか楽しいです。

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  3. 目に見えるガチガチのリードではなく
    目には見えないリード
    そこに引かれて付いていく、いいですね‼︎

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  4. ”牛に引かれて善光寺参り”じゃありませんが
    イエスと一緒ならたとえ死の陰の谷を歩く事があっても、、ですね。

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