2010年6月18日金曜日

食事

聖書では聖餐式は食事の中で、行っていたという話を以前Saltさんと話していた事もあり戸隠に来ていただいた時は食事の中で実際に聖餐式をと、思っていた。
彼が泊まった日曜日の夜、夕食のメニューはタコスだった。
当たり前だが家内の作ったタコスの皮には種が入っていない。
私は去年作ったワインを出してきて
「じゃあ、聖餐式やりましょうか。」と切り出した。

Saltさんに、パンを裂いてもらい祈って頂き口にした。
味はいつもと変わらないタコスの生地だ。
「じゃあ」とワインを渡されたので今度は私が、注ぎだし祈り飲んだ。
アルコール類は苦手な私だが、手作りのこれなら私も飲める。
その後同じパンと葡萄酒を飲みながら夕食を食べゆっくりと話をした。

儀式とは不思議なものだ。
頭で考えても、それをする事によっては私は何も変わらない。
それを行うことで私がきよくなるわけでもない。

私たちがそれを行う理由は聖書に書いてある、というただ、それだけである。
色んな意味を説明しようとすれば出来る。でも、それを私が行う理由は聖書に書いてあるからしかない。
クリスマスや受難週、イースターは、クリスチャンには、関係ないが、聖餐式は必要だから書かれている。

こう、聖書には書いてある。
イエスは、「私を覚えてこれを行いなさい。」

イエスは忘れないようにこれをしなさいと言ったのではない。
キリストは今も生きていて、今日も新しい、そして常に私に、新しく語りかけ、新しく導き、新しく与え、新しく許してくれ、新しく解き明かししてくださる。
同じ日は2度と無い、常に新しい時間をキリストと共に生きている。
主のして下さった事を、覚える。
感謝の心が足りない私にとって実に適切でありがたい。

当たり前の食事の中で、時間を取って聖餐式が出来たことが、うれしい。
赤い夕焼けは美しい。
しかし、時折見かける蒼い夕焼けも、実に美しいものだ。
その青には神のきよさや、正しさが感じられる。

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