いつもと変わりない週末の朝
全てが順風満帆に思えた。
一つの事を除いては、、。
朝のお通じが普通では無かったのだ。
綺麗な話ではないが初めて見た。
真っ黒だったのだ。
「普通では無い」と午前の用事を終えサンプルを持って
病院に、土曜の午後だったので全くの以上も感じてないのに
最初行った病院と消防署から緊急病院へと案内され
レントゲン、超音波検診、など
文字通り痛くもない腹を探られた。
ただ医師に採取したものを見せると流石に「これは普通ではありません。」
と胃カメラをのむ事になった。
人生初体験である。モニターを見ながらの医師の声
「あるな、動脈も出ている。今にも破れそうだ。」
その声にさすがに不安になる。「動かないで、破れたら腹を切るしかありませんよ。」と胃カメラ越しの手術で緊急入院となった。
食べ物はおろか水さえも飲んではいけないいわゆる「絶食」で車いすでなく台車で緊急病棟に薄皮一枚でとどまっているだけだから今夜破れるかもしれないといわれ寝返りさえはばかる環境になる。
今回最も気になった事は自覚症状が全くなかったことだ。
医師も吐き気や食欲不振、めまいなどあれだけ出血していて、無かったのかと聞いてきたが、
全くどころかお昼の弁当も食べる気で持っていたし、次の日からのスケジュールも自分で詰め込んでいた。
私にとっては急な予定変更で初めての入院、それも緊急病棟でだ。
家内に夜パジャマだけ持ってきてもらい乗ってきた車を持って帰ってもらった。
なぜこのタイミングでこんな事がとも思ったが
実は主からの回答は頂いていた。
私には自覚症状のない問題があり、
それがはっきりされたという事だ。
歯医者に行くのは虫歯が出来たからというよりは直接的には痛みを感じるからだ。
もし痛みや不調が世の中に無かったなら病院という名のつくところはこれほど繁盛せず、日本人の平均寿命も短くなると思う。
本来人は1本の葦の様にたやすく折れ、誕生日のキャンドルを吹き消すほどはかないものだが、健康が続くと「病気の方が俺から逃げていく」などと豪語したりする。
今回の入院に関するすべての事は、神の憐みが半強制的に、私に示されたという
恩寵ともいえるあつかいだった。
思ったより回復が早く腹を開くことが無かったとか、退院できた事が神の憐みだったのではなくそれを示してくださったことが恵みだった。
正直、私は健康や仕事や様々な事に対して「自信」みたいなものを持っていた。
キリスト者の生活の中で失敗も含めた多くの経験が謙遜ではなく自慢にも似た扱いを自分の中に置いていた。
あの時はこのような経験をしたとか、この前は
兄弟姉妹や神とどのような交わりをしたとか、この場合、神の御心がこうであると思っていたりする。神があるときは直接自分に語られたとか、どこそこに行くように命じたなど様々なことを知っているというつもりで過ごしながら自覚症状のないまま問題は進行していた。
そのような私は本当に神の憐みを必要とする状態だった。
旧約で割礼という儀式があるがそれは肉的なものを取り除く事。
肉にある者は神を喜ばせることができません。と聖書にあります。
神は今生きている神であって、過去にこんな働きをしたとか
どこかヒゼキヤの様に神に従ったなどで神に貸しがあるようにどこかで振る舞う傲慢さが気が付かないうちに育っていた。
今日、神に対して自分はどうであるか。
今、私は主を喜ばせているのか。今を神と共に生きるキリスト者にとって、真の命の選択は今であり今日私は神の前にどうなのだろうか、という事。
自分が何をささげたかより、どれ程、悔いて聞き従いへりくだる心で今を生きているかだろう。
神は漢字の通り神は私に示しまた申す神なのだ。感謝な事である。
点滴の跡はまだ残っているが、得たものはあっても失ったものは何もないのだ。