2014年5月12日月曜日

桑名生活、二日目

借りて枕元で読んでいた「ニー」さんの本
1922年から、彼のメッセージを、誰かが文字で起こしたもの

その中の125ページに「聖書の解釈」という所があって
私なりに要約すると、どの様な解釈、釈義であっても、つまるところ

「”それ”が霊によるか、魂か」

だと、、、アーメンと思いつつ、

「それ俺すごくやってたわー」

って振り返る所多し、まあ例えば聖書の何所でもいいんだけど、
順番に毎週メッセージをしていたとして
そこを何度も繰り返し読み、関係する所も読み
それを日常の中で、常に頭の隅にそれを置いて、静かに深く考察したりして
それは、どうしても、納得出来ない、いわゆる難解な、

「なんじゃこれ?」

的な箇所だったり
それを、神に強く祈ってみたり、著者である主に願ってみたり
とことん、前後の文脈や、共感できる他の聖書箇所を調べ上げ
立つ時も、歩く時も、床で寝返りを繰り返す時も、トイレの中でもデート中でも
もうほとんど「ドコを切っても金太郎」状態で、粘り強く(しつこく)思い続けて、

ある時、ふともう一度その聖書箇所を開いた時、まるで目からウロコが落ちる様に
または何気なく、一見関係性も無い、仕事中や日常生活の合間に
はたまたある時は、突然、電光のようなひらめきを感じ

それまで考えたこともなかった非常に理にかなった、
まさにストンと落としどころのある驚くべき、解答(個人的感想だけど)
または解釈、説明が与えられ、時には鳥肌が立ち
この様な、深い心理を、私の様な土くれに解き明かしたもう主に感謝を捧げ(やれやれですが、、)

物覚えがいいなら、それを頭に留めておくこともできるだろうし
何かに、記録しておきまた、読み返して繰り返し利用できたり
もし、次のメッセージの予定があったら、それを話しできる事に非常にワクワクしたり
クリスチャンの誰かに会うなら、その事を話さないではおられない気持にもなったりする

さて、今にして思えば、それは神にとって、(もちろん神の僕にとっても)
はたして、信頼できる事だったのだろうか、
アンサーは、「No!」です。
それらは、実に魂的な能力が混ぜ込まれていて
そこには、麗しい実がないと言えます(あるように見えても完熟する前に、虫がついた様に、腐ります)。

その解き明かしの内容は、知識の実を満足させるだけで
霊のいのちを、豊かに分け与える事がなかったからです。
わたしの得たと思っていたそれは、他の人に何かは与えたり
共感したりは、出来ても何も、そこから誠のいのちを与える事はありません。

神は、わたしの”あるじ”ですから、私の望む時や私の欲しい時、ほっする時、私の都合に
あわせる事はなさいません。
ただ、神の必要な時に、必要な分を(多くは有り余る程に)間違いなく与えて下さるのです。
本当に、父は偉大だ~

0 件のコメント:

コメントを投稿