2010年10月17日日曜日

頂き物

以前丸太を持ってきてもらったおじいちゃんから頂いた餅米の新米でお萩を作ってくれた。
戸隠のお米は気候の関係でどうしても旨みが足りない感じだったのだが、今年は暑い夏のお陰で美味しい出来です。
ここに住むようになって時々頂き物に預かるようになったが、基本的にガレージの前にただ置いてあっていつ誰が置いてくれたのかわからない。
まさか「これを置いてくださったのはあなたですか?」と、聞けないので、結果「この前はありがとうございました。」と挨拶する事が出来ない。
でもそれが良いと思っている。初めは誰だろうと思っていたが、今ではあまり詮索しないでありがたく頂いている。
そんな借り貸しの無い関係が心地よい。
全ての感謝は父なる方に登っていく、私が下さった方に感謝して頂くとき私は何も出来なくとも神はきっと私に下さった方に良くして下さるだろう。
神は全てをご存じなのだから何でもその方に任せておけば間違いないのだ。

4 件のコメント:

  1. イエスを唯一の仲介者とする関係性は、最も健やかで間違いのないものですね。

    主はいっさいをご存じで、偏りなくすべてを良きに計らわれると信じます。

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  2. ありがとうございます。
    まったくその通りですね。

    逆に知ることの弊害があって

    ややこしくしてしまうのも人間ですね。

    自分で良し悪しを決めることすらなく
    ひたすらただ主にたよることこそ健やかなキリスト者の生活。

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  3. 8/22(日)フォークダンスに写っている花の名を何軒かの花屋さんに訊いてみましたが、今日ようやく分かりました。キク科のヤマハハコだそうです。サカタのタネの店で教えてくれました。

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  4. エシュコル さん

    素晴らしいです。
    頂き物を下さった方はわからなくても、、という話でしたが、
    自分の庭に咲いている花の名前は、知っていた方がなんだかいいと思ってました。

    「人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった」
    とあるように、人がつけた名前があるなら適当に呼ぶのではなく、その名前で呼んであげたいもの。
    それは人の子となられた主が私達をその名で呼ぶ事にも関係すると思います。
    自分のタラントは何だろうかと探す事はそれに時間を費やすなら本末転倒ですが、エシュコルさん良く野にある花に心をとめて下さいました。
    求めよさらば与えられん。
    アーメンです。
    本当にありがとうございました。

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