2014年1月11日土曜日

道具道楽まとめ

 私たちは何かしらの道具を持つ 
道具とは、手や足や目や口の延長上にある物
丸太を手で切るのは出来ないので
のこぎりを持つようになり
更に早く切れて沢山切っても疲れないようにチェーンソーを持つ


人を飲み込むような 大波でも ボードが
断崖絶壁からの 落下でも パラグライダーが
水一滴無い砂漠の 真っ只中でも バイクがあれば 
それは遭難ではなく どこまで手足を伸ばせるか
挑戦であり 遊びになる。

以前「トリビア」で弘法大師が筆にメッチャうるさい人物だったと、、
自分の手足として使うモノだから拘るのは当然
腕が良くても道具がダメとか 道具が良くても使い手がダメだと それもダメ

私たちは主の道具でもあるなら
出力されたものが(それが何であれ)出来が悪いなら 
主に問題はないから 
結果 こちら側に問題があるということになる。

誰かに媚びたり 真似たりすることは 似た道具の様になるかもしれない
同じ様な道具を持っていても 使いやすいモノばかり使ってしまうから
用いられるモノは もっと使いやすくなる
かくして 持てる者は 更に持つようになる

 イエスが頭で 私たちはその肢体として この世に影響を及ぼすが
その伝達経路は 霊によるから
霊と繋がっていない魂や体は どんなに素早く複雑に動いていても
それは 意味の無い痙攣のようなもの

黒子の様に影が薄いからこそ役立つ働きがあり
一番役に立たないからこそ 薬指の様な働きが生まれる
道具にとって悲しいことは 一度も使われない事

勝手に動かない 合図を待つ 合図が来たらその通りちゃんと
この時代 全てのモノは古び 
ましてや 私たちは 生きている道具

美味しい食で 消耗品並びに 時には主要部品交換
適度な運動で 心肺性能維持
ゆっくりまったり 品質管理
大事に使えば 120年も使い続けられる体
そんなこんなで 楽しんで待ちたいもの

冬には冬の 春には春の 夏には夏の 秋には秋の 遊びがあり 楽しみがある
たとえホームレスであっても ダンボールくらいは 持っているだろうし
私は戸隠に家を構えてから 持ちすぎる程の 道具を 身の周りに 置いている
神の用意して下さるフィールドは それを楽しむのに狭すぎることはない
問題は 常に自分の側にあって 自分でその世界を狭めてしまう

子供の時は 子供の
大人になってからは 大人の
歳を重ねてからは 重ねたなりの 楽しみがあると感じている。


2 件のコメント:

  1. 道具道楽シリーズ、楽しく拝見しておりました。愛着のある道具はそれを使う人の一部とも言えます。真理の「道」に選んで使われる「具」でありたい。

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  2. Saltさん ありがとうございます。

    ”「道」に選んで使われる「具」”

    なるほど なるほど
    世的には「愚」でも主の前に「Goo」でありたいですね。

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