
凸と凹がピタリと合っていく様は、超気持ちいい。
「うまいじゃん」と誉めてくれたが、
墨を引いてくれたのはまっちゃんで
私はそれを切ったり彫ったりしただけだから今回巧くできたのはまっちゃんのお陰だ。わざと角材にしてないので直角を出すときも難しい。
それにしても、今回も思わされた事は、
私は、木が好き。木は良いものです。木が必要でした。
ただ倒れてそのままでは腐っていく木であっても私の目にそれは高価で尊い。
でも、、そのままでは薪などにはなるが(それでも切り刻むが)、家を建てる事には、使えない。
皮のついたまま、捻れたまま、曲がったまま、枝の伸びたままだと無理。
私の所に来るときはそのままの原木でいいんです。
任せてくれれば、墨を出し、切り、削り、研いていく
木は整えられて色んな所に使える木材になる。
2テモテ2:20 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
2:21 ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。
金や銀が必ずしも優れているわけでもない。熱いお茶を飲むときには木の器の方が軽いとか、熱くないとか具合がよいものだ。
でも、どんな器でも汚い器は使えない、綺麗にしなければペンキ缶にもならない。
せいぜいゴミ入れとして使って聖書の時代ならベン・ヒノムの谷底現代ならゴミ最終処分場にでも捨てるしかない。
私たちは自分でがんばっても、尊いことに使われるきよさになることはない。
私たちの義はボロ雑巾のようだ、一度も汚れたことのない方、その方だけが私をきよく整えてくださる。
今回も丸太をそのまま使おうとしたり、私が適当に線を出してきざんでいたなら、巧くいかなかっただろう。
自然に生えている木は完全に真っ直ぐである事がない。真っ平らな木、真四角な木を森で見ない。
だから、まず、皮をむき、出ているところは削り、大体平らにしてから、墨壺で真っ直ぐな線を引く
それを基準として進めていかないと、しぐちがぴったり合うことはない。
私は工場から出てきた木材は便利だが魅力は感じない。
曲がっていたり、節があったり、部分的に皮が残っているその木の持つ個性や味わいが好きだ。
だから今回も出来るだけそれを残したが、他の木材とぴったりと合う所、全てが協調して、一つの建物となる美しさは、匠の技なしではなしえない。
32:4 主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。
木は削られるとき文句は言わないが、大工用語で「あばれる」と言うことはある。
その時はねかせておく、いわゆる乾燥させる。
期間は樹種によって違うケヤキは70年、針葉樹は冬に倒して葉を着けたまま乾かせると1年でも使えるらしい。でも同じ木でも1本1本違うから癖の強い木ほど長く寝かす。
さらに、大切な所、(例えば床の間)に使うモノなどはもっと長く寝かす。大体、苦労して育った木ほど良い木になる。痩せた土地、水のない岩の上、崖の先、高いところに育ったモノは成長は遅いが、木目が詰まっていて、香りも強く、しかも個性もある。
最低なモノは植林された木で、特に畑の下などは化学肥料を吸って成長は早いが中はぼこぼこで弱く、根を張らないので風で倒される事が多い。
乾燥させるとき水の中に沈めて寝かしておくとさらに良い。
水の中で乾くのか、と思うのは素人で、樹液が入れ替わり具合が良く早い。
天皇家の材として使う木は海と川の合わさるところで20年は沈めた木材だと聞いた事がある。
その時、あばれるだけあばれさせておくと、実に辛抱強い求められた事に答えてくれる品性のある木になるという。そんな偉そうな事を書いている私はどれくらいねかせられるのだろう。