2010年9月3日金曜日

レビ記

レビ記や民数記は、細かな規定が繰り返される様な話が多く歴史のドラマ等が無いので結構読み進めるのに大変な時もある。
今朝読んでいてこんな箇所に目が留まった。

「民が主に引き渡したものは全て聖なるものとなる。
彼らは決してそれを取り替えてはならない。
すなわち良いものを悪いものにであれ、悪いものを良いものにであれ、かれは決して交換してはならない。」

聖となるとは、別で取っておくということだ。
一度捧げたら交換できないということが、書かれてある。
まあ勿体ながって悪いものに変えることは、いけないのはわかるが、
後でみたらもっと神に相応しいものが見つかったからといって更に良いものに変えることも、ダメという規定が書かれてある。
まあ見るからに最初から悪いものは受け入れられないから論外だが、このことは実に有難いことだと感じた。

自分の気が変わって神に捧げた自分を、自分ではチェンジ出来ないという事実は、時々こんな俺でいいんかい。という不安を消してくれる。
もちろん捧げ物は傷のないもので無ければならない。
それはイエスキリスト以外ない。幕屋の時代家畜の頭に手を置いて自分を移した様に、ただその言葉に書かれてある通り、信仰で私も十字架に打ち付ける。
もし後で、こっちにしたいからどうしても交換してとなっても、変えたものも、元のものも両方とも聖なるものとされると続けられている。つまりどちらにせよ、私は一度捧げたら別にとっておいてある事には変わりは無いわけだ。

「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、
イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように」

ここには神の主権だけがあり、自分のする事は任せる事以外ない。
空気が少し冷えてきてテラスから見た夕日が綺麗になってきた。
見える景色は同じように見えて万華鏡の様に一つとして同じ夕日も無い。

4 件のコメント:

  1. 確かに、聖化や聖別に関する教えは、ほとんどが人の言い伝えだと思います。

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  2. Salt さん どうも

    聖書は何度読んでも、発見がありますね。
    自分がぼけているだけかもしれませんが、
    読んだからもういい、では無いのが有難くもあり悔しくもあります。
    自分はただ、少しずつ変化する夕日を、見ているようなもので、神のなさっていることをすげーって見てるだけで、きよさとは自分はほど遠いです。

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  3. 聖さが自分の日常や努力の延長線上にあると思い込んでいるおめでたい宗教の方々は、聖書のどのページを読んでおられるのかと不思議になります。

    贖いの実感なしにレビ記を読むと打ちのめされてしまうか、退屈かのどちらかなのはずなんですが、意味もわからずありがたがる人の気持ちも私には理解しかねます。

    電気屋さんのおっしゃるとおり、もっともっと「すげーっ」となるはずですよね。

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  4. 交わりをありがとうございます。
    自分の力で頑張っていた時ほど、夕日を見る余裕がありませんでした。
    何もすることが無くなってから、ひょっこりと主がたずねてくる感じは、アブラハム99歳みたいですね。
    肉が衰えてこそ、死んでこその神のタイミングって事が
    あのお方らしいです。
    ただ、夕日と同じで、主のなさっていることを見るのは、何故か飽きないんですよね。
    今日も暑いですが、夕日が降りる頃にはどんなんでしょうか。
    神のなさることがただ、楽しみです。

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