2010年9月29日水曜日

朝帰り

Saltさんのご厚意で8年ぶりに語らせていただいた。
ノアが箱船をつくる所からの話だが
人は突然大きなことは出来ない、もし出来たするとそこには長い時間をかけた他の人には見えない準備やどこか無理やフェイクがあると思う。
マジシャンが観客の前で一瞬芸を見せるためにどれほどの地味な練習を繰り返してきたことだろう。
毎日、毎日少しずつの積み重ねが完成に近づいていくプロセスになる。
その時々には悩みや、苦労と言えるモノもあっただろうが、
後で振り返ったときにそれは満足のある働きとなっただろう。
saltさんは、100年のプロジェクトとしては救われたのが8人では失敗だろうと話された。
あえてこの世的な言い方をする彼には親近感を覚える。それが来るべき世の話に繋がっていくことになるのだ。
100年とか8人という数字だけにとらわれる人のパターンではなく
救われた者がいたという神のパターン。
神は少しずつそのパターンを変化させている。エノクはただ彼だけが救われた。ノアは家族も救われた、しかしアブラハムからはそれだけでなく世界の民族にまで救いが拡張している。
太陽が毎日昇って沈むように神にもパターンがある。
しかし神はワンパターンではない。

昨日、三重を出たのはAM1時だったそこから徹夜で土砂降りの高速を休憩をとりながら明るくなるまで走らせた。ワイパーを一番速くしても見えにくい大型トラックが巻き上げる水しぶきがとぐろを巻いている。フロントウインドゥにたたきつける雨がうるさくてCDの音もほとんど聞こえない。でも、私にその様な伴侶が共にいるとき、もはや困難は困難ではありません。(言葉お借りします)久々の彼女との朝帰りだった。長野に帰ってきたらアケビが開いていた。
そこには同じ方の地味な一日一日の働きが感じられる。ノアが彼の愛する方と共に大雨の後箱船から出てきたとき見た虹はどの様に見えただろうか。
あなたは最近いつ朝帰りしましたか。

5 件のコメント:

  1. 何はともあれ、人間にはあまりに想像もつかない次元にいるので、神さんの御心って理解できないです。

    なので納得いかないことが神さんのやっている事の中に多々あって・・・でもそれは自分があまりに知らなさ過ぎるって事の証明なんですが・・・・

    でもこの洪水伝説とか色々と同じ話が世界中であって、だいたいほぼと言っていいぐらい筋がよくにているのですねぇ。 まだ世界で簡単に情報がやりとりできない頃に・・・

    なので世界規模でそれが起きた事実、そして生き残った人が数名は世界中でいたこと・・・

    でも、この地球は、いえいえ神さんは我々をまた微生物やバクテリアレベルまでに戻してしまうぐらいたわいもないのですから。 でもここでそこまで戻されると・・・現実問題、太陽がすでに半分の寿命になっているので、いくら地球が若くて瑞々しい星であっても、人間レベルの知的生命体と言われる動物まで進化するのが厳しいようです。

    でも・・・知的生命体といいながら、我々はそこにいる犬、猫の事だってほんとうはわかっていない、あるいは彼らは我々とは全然べつで、すでに神の創造主の事をなんら考える事なくして創造主の中で生きている(以前ものべましたがこれ)存在であるかもしれません。 人間のように振舞ってないだけで、彼らの持つ全ては我々には知りえないのですから。

    しかし、彼らに罪という言葉は彼らの行動からしてない・・・エデンの中にいるそのままではないかと。

    人間だけがそこから出てしまった・・・・っーか、あのリンゴの置き方とか、あの「食べたらあかんでぇ」と言う言い回しが妙に演技ちゃう?となっているのでした。 神さんそりゃないぜよってね(^▽^;)

    でも、それはなくてはならなかったのでしょう。 すべて必然、神さんのご計画の中ということで。(^^)v

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  2. ヒゲさんどうも

    確かに聖書にも「なんで?」と思う箇所はありますね。
    「でもそれは自分があまりに知らなさ過ぎるって事の証明なんで」
    本当にその通りだと思います。

    ただ世界が今のようになることは神の計画の中にはないです。もし計画なら人があの実を食べることは必然になり食べてはならないと言った神が真実でなくなります。
    英語では木になるものフルーツは全てappleが付きますが、神は人が善悪の知識の木の実を食べるリスクはわかっていたと思いますが、とどめなかったのは人に与えた自由ゆえ、
    どうか忍耐して聞いていただけたらと思い
    書かせていただきますが、
    私の聖書からの理解では
    造られた物の”ある意味”で代表であるアダムが罪を犯した時全ての被造物が落ちました。
    悲しいことに家の猫も「罪猫」と言えます。だから死にます。彼らに責任はありません。
    それゆえ猫には神は自由に選択をさせて救いを得させるという方法はとっておりません。それは人に委ねられています。
    私は人を「知的生命体」とは思っておりませんし、どちらかと言えば「恥的生命体」または「愚的生命体」だと思います。
    また世界中に洪水の伝説があるから洪水を信じている訳でもありません。聖書にそう書かれてあるからです。
    ただおっしゃっているように「彼らの持つ全ては我々には知りえない」と思います。
    「太陽がすでに半分の寿命になっている」事は知りませんが、太陽が無くとも神は私を生かす事が出来ると信じています。
    たとえカエルが東大に合格する程になってもカエルはカエルです。また人が微生物以下の生き方となっても人には変わりありません。
    神は種の主でもありその境を定めていてそれを超えて進化することはありえないと信じております。

    もちろん私は全て知ってもいないし、今理解していることが全て正しいと思っていません。
    ただ聖書を信じています。私は私すら信じられる存在で無いと思っていますが、神はそんな私を完全に出来ると信じてらっしゃいますのでそれを、信じて生かさせております。
    なんだか折角ヒゲさんのコメントを否定するような返事になって心苦しいのです。それはヒゲさんが一般のキリスト教徒的な型や考え方にはまらず個性的かつ自由な発想を持っていらっしゃるのでいつも興味深く見させていただいているからです。
    どうぞ、創世記のみならず、ローマや他の書簡も読んでいただきまた、私にも深い真理のきっかけを与えてください。
    年を重ねるとどんどん頑固になってくるものですが、私はどんどんキリストになりたいのです。
    またよろしくお願いします。

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  3. そういう考えをもった事もじつはありました、そしてグノーシス派のように考えたこともありました(この世界は欠陥だとね)

    で、それらを通してわかったのが「自分は何もわからない」だったのでした。

    なので、自分がわかることは現実に身に起こったことしかありえないということに行き着いた、いやもっとも単純で当たり前の事だったのです。

    なので猫が犬が神によって罪に定められたなどと決して自分で言い切ることができないと理解したのです。

    そして、残ったのは何か「信じる」事だけだったのです。 私は被造物がすべて罪にされたというシーンを聖書からは読み取れませんでした。 と言いますかそれを確定することは書かれてなかったような記憶です。

    ほとんどの人が勝手に解釈して、御霊からの解釈に至っていない、これがそれぞれの解釈によって引き起こす摩擦となっていることがわかります。

    だから・・・無知は罪とお釈迦様がいっていたあれです。 お釈迦様?とキリスト信者が目くじらたてて他の宗教を否定したりすることはないと思うのですが、それはそこに真理があるからです。

    無知は罪なんです、まだまだ無知と言う事になるのです、犬、猫や他の動物は無知ではありません、すべてが整って完成された形態でおり、その生命の働きに純粋に生きているのです。人間以外はです!

    わたしは旧約で神さんがふざけるような行為をしているのも読みましたが、なんとなくあの知恵の実に関してはそうするとわかっていてやっているような気がしてなりませんでした。 でもこれは自分の憶測と勝手な想いです。 断定できない、それはヒゲがそこを知らない、無知だからです。

    なのでそうであるような気がするなぁ~程度ですね。(^^)v

    そこを自分の意見を押し通す気もなく、それこそ傲慢ですし、勝手な解釈を正当にするものでしかありません。

    わたしはこの世界におきている全ては必然と感じます、それは自分がここまで生かさせてくれている筋道と地球の歴史をこうして教えてくださっている神さんのこれらの筋道を見ると、明らかに美しいタイミングですべてが構成されている事に気が付いたからです。

    そしてこれは聖書にもある神の時は美しいの言葉にあてはまるのです。

    そして電気屋さんにはまだこれから本当は訪れて欲しい体験があるのです・・・しかしそれはご本人にとっては人生で経験したことがないくらいの苦難となるかもしれません、あのヨブさんに近い経験・・・とまでいかなくても、ほんまに「信仰」とはなんぞや?という真理が理解できる体験を私は望んでしまいます。

    これを体験すると、そこに残るのは、聖書があ~どこぉ~だというものではなくなると感じます。 そこに残るはただひとつ、イエス兄さんの残した「新しい神さんとの契約=信仰」となるでしょう。

    そして、そこで得た深い信仰は、当時のイエスが現れたあの時代に「彼が神からきたものだ」と本当にそれを信じる事がどれだけ大変だったかを身を持ってしる事ができると確信します。

    これは、言い換えれば「今のほとんどの人が、当時あのようにイエスが来たときに、彼に石を投げつける人たちに自分達がなっていたことであろう」とそれに気がつかない自分が今あることにきがつくでしょう。

    誰があの時代に彼を神からの人と信じられるかと・・・・ようは、我々は聖書の筋道を概ね通してそのバックボーンを知っているから、最初からイエスが神の子であるとあるいみ理解して読んでいる、からこそ、イエスが神の子であるのを信じて、またパリサイ人や他の者達を「アホちゃうかこいつら!」と思ってみることが出来るのです。

    しかし、ほんまに今あなたが当時の人間で後にも先にもモーセの教えでがんじがらめで、命まで奪われるその律法の中、貴方はまったく知らないその貧相な男がきて、(もしかするとオームの松本風かもしれませんよ)私が神からきたものだ、私を信じなさいといってその場で信じられますか?と言う事です。

    いまここで、大人と思っている人は大概無理ではないかと・・・これは今の社会において、社会の通年を無視し、世界観をまるで変えてしまう方向へ自分を誘わなければならないからです。

    今の自分の生活、性格、全てにおいて考えを改めなければいけないのです。

    聖書を信じますとおっしゃっているのですが、もうちょっと心を平常にして、落ちついてそれを考えられて、御霊に聞いてください。

    そして信じると言う事がどれほど恐ろしく大変で、困難で、苦難であるかを、できれば体験せずともその理解が御霊に届いて欲しいとも願っています、そのそうぞうを絶するのがイエスの十字架です。

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  4. ヒゲさん
    熱いコメント読ませていただきました。

    確かに私はわからない事も多く、今自分のいるところから言ったり書いたりした事の中には間違いもあると思います。猫や犬については聖書はほとんど書かれてありませんから、言い過ぎたかもしれません。どうぞ私の知らない罪も許していただけるように願っております。
    「無知は罪」ですか、厳しいですね。知らない故の罪、知っているのに犯す罪、色々ありますね。
    ヒゲさんに知ろうとしないからだとお叱りを受けるかもしれませんが、今の私には此処までの啓示しかもらってないので、そうですよね、と言えないのです。
    ただ、必ず明らかになる時が来る希望がありますので
    私たちはイエスに感謝できます。
    理解や信じる事の違いが、さらに愚かな方向に行かないように主が守ってくださいますように。
    試みや苦しみにあわせず悪しきものから守ってくださいますように、もしそのような時が来た時はそれを乗り越える力を全能の神が与えてくださいますように。
    どうぞ無知な者に真理を知らしめてくださいますように、感謝です。

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  5. ご返事ありがとうございます。

    電気屋さんが「望む」限り、それは無制限に答えてくれますし、イエスも言っている通り「願え、聞け、叩け」と言うやつですよ(^^)v

    神を知ることはこの世界を知ることでもあり、世界を知ることは「神さん」を知る大きなきっかけにもなります。

    そしてなにより、それを知っていくごとに・・・神さんの我々への愛「アガペの愛」を強く感じる事になると思います。

    すると、今よりももっと電気屋さんは神を、イエス兄さんを愛するでしょう、そしたら・・・イエス兄さんがいってましたね「愛したぶんだけ愛すると・・・」

    そうなんです、知ることによってそれは神さんの愛に触れられるのです。 もっともっとその愛を感じてください、この世界は全ての人にとって敵ではないと、私にはそう神さんが色々な事で伝えてきました。(これの伝えてきたというのは難しい表現なんですが、言い換えれば「悟る」ということです。 そしてこの悟りは簡単にできるものです、聖書でもパリサイ人でも使途達でも「悟った」とありますが、あれが悟りです・・・仙人が山にこもって修行して悟るという大げさなものではないのですね。 あなたの心の奥(御霊)からの言葉みたいなものです「第六感とか直感というやつですよ(^^)vピンときたってやつですね、または「あ~これ俺の事言われてんだ」ってやつです、そしてこれを否定してしまうと・・・神さんとのコンタクトは厳しいものとなる気がします、、決して肉の考え「脳の考えではない」ということです)

    ヒゲもとことん悩んでます、そして普通に言えない問題も抱えています、ところがそれだからこそ神さんの愛と、神さんのひとつの御心をこんな自分に見させてくださいました。 神の栄光というやつですね・・・かなりちゃらんぽらんなイエス信仰部員です(^▽^;)

    でも、それはただひたすら自分が洗礼を受けたときから「神さんの事しりたい!」と問い続けて、今の自分に分かる部分でちょこっとだけ教えてくれて、だからちゃらんぽらんでいられる感じです。 知らなかったら必死で聖書読まないとダメかもとか、礼拝にはきっちりいって祈らないといけないのでは・・・とか、白く生きないともうダメなんではとか・・・真面目にしないと天国いけやしないのでは・・・とか・・・

    やはり知ることによって多くの誤解や無駄がわかってきます。 そして、この知ることは素直に謙虚に聞くことですから、それこそ「幼子の様に」なのです。

    「幼子の様に」には沢山の意味が詰まっていますが、上記はそのひとつってことで(^^)v

    と、なんだかイエス信仰部員突撃解説班みたいになってしまいました。(;^_^A アセアセ・・・

    がんばってくださいね、今の神さんは電気屋さんにだけの神さんです(これもあるいみ悟ってくださいイエスもちゃんとヨハネの終わりごろで同じような事をいっております)、遠慮せずにどんどん聞いてください、神さんまってまっせ!

    ちなみに私・・・よそ様叱れませんですよぉ~(>.<) 

    あと・・・これ返信不要です(^^)v

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