2013年11月7日木曜日

交わり



私の家から10分程下った所に二つの川が交わる所がある。
昨日は午前中で仕事を切り上げ 夕方F6Cで下りてみる。
足つきは悪くないから、私にはかえってBMのGSより、ここには気軽な感じ

戸隠連峰に降った雨と 鬼無里の荒倉山に 降った雨が出会って
ここで 一つの流れになり もはや元通りに分ける事は出来ない
そして千曲川に合流しやがて海にそそぐ。

願わくば 神が下さった聖霊と 私の霊が 
こころのもっとも深いところで、出合いまざり合い
もはや あらゆる識別力をもってしても 区別が出来ない程に 
分ける事が出来ない程 「ひとつ霊」 となりますように


霊的な知識と 霊の知識とは 違う
ただ魂は 多くの霊的な知識を 用いて模倣する事はできるだろう
その場合 外側から見えるその人と 霊の人とは ほとんど見分けがつかない(見た目であって、霊の識別力つまり霊の目が開けば赤と青を見分ける様なモノですが)
魂的な事は 外側に影響されるし 外からやってきて 外に説明を求めたり自ら理由を探す 人からの評価がとても気になるもの
ただ魂は 霊を演じて自分自身さえも 騙すから(極度の思い込み、自己暗示的、またはクリスチャンの自分がまさか真の意味では霊的ではないと認めたくないだけ)
内側からきているようでも それが 自分のこころの声か 
神の霊からくる声か 見分ける必要が生じる

霊は ただ純粋に内側からくるし その示す所のものは 私の魂を驚き怪しませるほど おもいもつかない事
あまりにも とっぴょうしもない事が多いから 人に説明する事も自己弁護することも(出来)ない
だから自分のこころに自分が責められる様な時も多い

私が長野に行かなければならない時
「何故、長野でなければならない」と、問われても
「私の為に死んでくださった方の意志だからです。」としか言えなかった
イエスを知らない家族や親族にとっては理解させる事は出来ない

教会(という集まり)を出る時も 頭では
「何故、牧師である私が 出なければならないのだ、出るなら向こうだろ?」って頭では思っていたが
主がそう言ったんだから 説明は自分にもいらないし 人にも連絡しなかったし 
ましてや説明は出来ない
イエスも「何故 十字架 」という説明は弟子にもしてないし、
生まれる前から「何故 ヤコブ」という説明はない
全ては神の選びであり 意志なのだ
 
多くの場合 こころはその本人さえも騙すから 自分は霊的であると思い込む事も多い
創世紀に 「ひとつ体となる」とあるように肉は肉であって 
霊は霊としか 交わらない 
神の願いではない肉の交わりで イシュマエルを産む事があるように
悪い霊との交わりで 産み落とされるものもある
感情や思いに振り回されず あらゆる識別力与えてもらって 意思決定する必要がある

どれほど清流であっても 濁流と混ざれば ただの泥水でしかならない 

バイクで川沿いを走った後 日が暮れるまで 田舎の小道を 選びながら 帰宅
タンデムも好(い)いけど ひとりも良(い)いね

2 件のコメント:

  1. まあ、so be it! ということなのでしょう^ ^

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  2. Lukeさん

    ひとりごとにしてはしては力が入り過ぎましたね(゚-゚=)

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